玄米の乾煎りと、人間の都合のいい話

玄米の乾煎り

玄米を食べ始めた頃、僕はしばらくのあいだ、米を炊く前に乾煎りしていた。フライパンでからからと炒めていると、台所に立つ自分が急に玄米のプロになったような気がした。あの音には自尊心をくすぐる何かがあった。

きっかけは、アブシジン酸という物質の噂である。玄米にはそれが含まれていて、どうやら体に良くないらしい。そんな話が健康界隈を駆けめぐった時期があった。科学的にどうなのかは正直よくわからなかった。だが台所に立つ人間というのは、こういう話に妙に弱い。

乾煎りという小さな儀式

乾煎りすれば大丈夫らしいと聞けば、やってみたくなる。発芽させれば安心らしいと聞けば、浸水時間を伸ばしてみる。人間とは、台所で小さな儀式を増やしてしまう生き物である。

うちの実家の炊飯器には昔なぜか手編みのレースカバーがかかっていて、母は使うたびにめくっていたが、あれもきっと似たような理由だったのだろう。

日本の台所には昔からこうした儀式がいくつもあったのだ。

しかしある日、僕は乾煎りをやめた。理由は単純だ。面倒だったのだ。

正確に言うと、やめる理由を探していたのだと思う。そんなとき、ある米屋のブログで「アブシジン酸は気にしなくていい」という熱量たっぷりの記事を読んだ。科学的な裏づけは薄かったが、その熱量に押し切られてしまった。人間なんてそんなものである。自分のしたいことをやり、したくないことをやめるための許可を、いつも誰かや何かに与えてほしがっている。

乾煎りをやめてからしばらく経つが、顔色は悪くなっていない。体調も変わらない。つまり、どちらでもよかったのだ。

台所に根づくおかしな文化

思えば、台所という場所には「やったほうが良さそうなこと」がたくさんあるような気がする。

たとえば出汁がらの昆布を冷凍庫に溜めていく習慣。いつか佃煮にするという大義名分のもと、気がつけば冷凍庫の片隅に昆布の化石ができあがり、ケーキのミニ保冷剤の大群と熾烈な領土争いを繰り広げている。

空き瓶を捨てない習慣も同じだろう。食器棚の三段目の抽斗にはいま、妻がジャムの空き瓶をぎっしり詰め込んでいる。そのうち五百円玉貯金でも始めるのではなかろうか。旅先の空気でも詰め始めたらお見逸れするのであるが。他にもバターの銀紙で包丁を拭くとか、トングを持つとまずカチカチ鳴らしてしまうとか、数え上げるときりがない。

こうして並べてみると確かにばかばかしいが、みんな「そのほうが気持ちいいから」続けてきたのだろう。

乾煎りをやめたことで、僕はひとつ学んだ。台所の習慣は、正しさより気分の良さで決まるということを。

気になるなら乾煎りすればいい。気にならないならやめればいい。浸水を長めにしてもいいし、発芽玄米を選んでもいい。どれもまちがいではない。

健康情報はこれからも波のように押し寄せてくるだろう。そのたびに右往左往していたら、台所の静けさが失われてしまう。

僕はいま、玄米を洗い、鍋に入れ、水を注ぎ、静かに炊いている。乾煎りはしない。理由は、やめたほうが台所が静かだからである。

人間は、都合のいい話に弱い。でもその弱さが暮らしを少しやわらかくしてくれる。