この記事は、読者の方からいただいたご相談への回答として書きました。同じ場所にいる誰かに届けばと思い、ご本人の了承を得て公開しています。
「見た目の悩み」という言葉では、全然足りない人がいます。
鏡を見るたびに、胃の奥がしずんでいく人。集合写真に映ることが怖くて、気づいたら端に隠れている人。誰かに笑われる前に、自分から笑いにいってしまう人。
その根っこに、誰かの言葉が刺さっていることがあります。
親かもしれない。きょうだいかもしれない。子どものころのクラスメートかもしれない。あるいは、ずっと信じていた人かもしれない。
「あなたは不細工だ」「そんな顔じゃ誰にも好かれない」「もう少しましな顔に生まれてくればよかったのに」——そういった言葉は、単なる傷ではありません。その人の世界の見え方そのものを、書き換えてしまいます。
どれだけ実績を積んでも、どれだけ努力しても、どこかで「でも自分は醜い」という声が聞こえてくる。論理では届かない場所に、その言葉は根を張っています。
表面的な言葉では届かないとわかっていながら、それでも今日、三人の思想家にこの問いをぶつけてみました。
フランクルに相談してみたら
ヴィクトール・フランクルは、オーストリアの精神科医です。ユダヤ人として第二次世界大戦中にアウシュヴィッツへ送られ、妻も両親も収容所で亡くしながら、みずからは生き延びた人物です。その体験を記した『夜と霧』は、世界中でいまも読み継がれています。
人間の尊厳が徹底的に剥奪される場所を生き抜いた彼に、この問いを持っていくと、おそらくこう答えるでしょう。
「あなたに言葉を投げつけた人間は、あなたの外側を汚しました。でも、あなたの内側には、指一本触れることのできない場所がある」
フランクルが収容所のなかで発見したのは、どれほど過酷な状況に置かれても、自分がどういう態度をとるか、その自由だけは誰にも奪えない、ということでした。
「醜い」という言葉を浴びせられた状況は、自分では選べなかった。でも、その言葉をどう受け取り、どう生きるかは、まだあなたの手の中にある。
フランクルはそれを「最後の自由」と呼びました。収容所の中でさえ奪えなかったその自由は、他人の言葉ごときに奪えるはずがないと、彼なら静かに言うでしょう。
はやま
スピノザに相談してみたら
バルーフ・デ・スピノザは、17世紀オランダの哲学者です。ユダヤ人社会からも、キリスト教社会からも異端とされ、破門され、孤独の中でレンズを磨きながら哲学を書き続けた人物です(レンズ磨きの職人だった)。その主著『エチカ』は、幾何学の証明のような形式で書かれた、異様なほど論理的な本です。
「美しい」「醜い」という評価が、ずっと自分の中に刻まれていると打ち明けると、スピノザはこう言うでしょう。
「その物差しは、誰が作ったものですか」
スピノザにとって、「美」も「醜」も、人間が社会の中で勝手に作り出した比較の尺度に過ぎません。自然界には醜い岩も、醜い雲も存在しない。それらはただ、そうあるべくしてそこにある。
彼の哲学の中心にある概念が「コナトゥス」です。これは、すべての存在には、自分自身であり続けようとする力が宿っているという考え方。つまり、あなたが今ここにいて、息をして、考えているという事実そのものが、宇宙の必然的な力の現われだと彼は言っているのです。
あなたを「醜い」と評した人間は、勝手な物差しであなたを測った。それはその人の無知の証明であって、あなたの真実ではない——。スピノザならそう言うはずです。
はやま
メルロ=ポンティに相談してみたら
モーリス・メルロ=ポンティは、20世紀フランスの哲学者です。「身体論」で知られ、人間の体を「見られるもの」としてではなく「生きるもの」として捉え直した人物です。少し難解な哲学者ですが、今回のテーマには、誰より鋭い言葉を持っています。
「鏡を見るのが怖い」と言うと、メルロ=ポンティはこう返すでしょう。
「あなたは今、自分の体を『外から見られる物体』として見ています。でも本当は違う」
鏡に映る自分は「客体」です。外から評価され、値踏みされる対象。「醜い」という言葉を投げつけた人間は、あなたをその「客体」の檻に閉じ込めました。
でも今このとき、あなたは何かに触れ、温かさを感じ、息をしています。それをしているのは「客体」ではなく、「主体」としてのあなたです。
体は、誰かに評価されるための絵画ではない。あなたがこの世界を歩き、感じ、生きるための、唯一無二の乗り物です——。メルロ=ポンティはそう語っています。
鏡の前に立つとき、わたしたちは「見られる自分」になります。でも台所に立ち、火を使い、食べるとき、わたしたちは「生きている自分」に戻ります。その感覚を、少しずつ取り戻すことが、他人からの評価の呪縛を解く入口になるかもしれません。
はやま
葉山の食の処方箋
外から浴びせられる心ない言葉を長年飲み込んできた体は、冷えて、固まっています。言葉では届かない場所に、食べ物なら届くことがあります。
玄米という、飾らない生命の塊
皮を剥かれ、白く整えられた「美しさ」(白米)ではなく、野性味を残した玄米をよく噛んで食べてください。玄米の力強い生命力を体に取りこむことは、「洗練されていなくても、わたしはわたしとしてすでに完成している」という力強さをもたらしてくれるはずです。
根菜で、大地につながる
ごぼうやれんこんを炒めるだけでいい。泥の中で育ち、どこまでも根を伸ばす野菜の力は、他人の評価という強風に揺さぶられそうなとき、足元を静かに支えてくれます。
梅しょう番茶で、内側を温める
今回は、少し違う飲み方をしてみてください。
梅しょう番茶を淹れたら、鏡の前には立たないでください。ただ、温かい液体が喉を通り、胃に落ちて、体の内側がじんわり温まっていく感覚だけに集中してください。
そのとき、あなたの体は「見られるもの」ではなく「感じるもの」になっています。「美しい」も「醜い」も、その感覚には関係がありません。ただ「温もりを受け取っている、生きている体」があるだけです。
心の傷はすぐには消えないかもしれません。でも、自分の体を温かいもので満たすとき、あなたは少しずつ、自分を「罵る対象」から「いたわる対象」へと書き換えています。
他人の目は、あなたの表面しかなぞれません。でも、あなた自身の温もりは、あなたの骨の髄まで届きます。
- 鏡を見るのが怖くなった——老いていく自分を受け入れられないあなたへ、哲学者三人に相談してみたら
- 誰にもわかってもらえない——哲学者三人に相談してみたら
- 「完璧なお母さん」でいなきゃ、と思っているあなたへ——哲学者三人に相談してみたら
※このブログの情報は、医療機関の監修を受けておらず、病気の診断、治療、予防を目的とするものではありません。記事内でご紹介している効果効能についても栄養素や成分に関するものであり、商品やサービスに関するものではないことにご注意ください。体調不良が長く続く場合は、医療機関で相談することも大切です。食卓でできること、専門家の力を借りること、その両方が、あなたの体を支えます。

