前夜は飲みすぎた。
翌朝、一睡もしないまま東京から長野までハンドルを握り、沢渡のバスターミナルに着いたのが、夜明け前の五時二十五分。シャトルバスに乗り込んで、三十分ほど揺られて上高地へ。
バスを降りたとたん、空気が変わった。標高千五百メートルの冷たい風が、二日酔いの頭をキリリと引き締めてくれる。これだから山はやめられない。
九月末、僕たち一家は紅葉まっ盛りの涸沢カールをめざしていた。
上高地から涸沢カールまで片道16キロ
涸沢カールというのは、北アルプスにある日本最大規模のカール——氷河が削り取ってできた半円形の谷で、三方を奥穂高岳、涸沢岳、北穂高岳といった名峰に囲まれている。これら穂高登山の拠点となるほか、秋になると息を呑むほど鮮やかな紅葉の絨毯が楽しめる。我が家のようにそれだけを目当てに訪れる家族連れも多い。
とはいっても、カールの底部でも標高は二千三百メートルだ。高尾山の四倍近い。そう気軽に行ける場所ではない。山に登る者なら一生に一度は行きたいと願うあこがれの地でもある。
娘は小学三年生になり、だいぶ山慣れしてきた。今回は歩行時間のかなり長いルートに挑戦だ。上高地から涸沢カールまで片道十六キロ、標準コースタイムは往路六時間十分。登山者のブログをいくつか読み、子連れでも五時間もあればいけるだろうと踏んでいた。
結果を先に言ってしまうと七時間四十分かかった。休憩、トイレ待ち、写真撮影。五時間というのは、独り身のソロハイカーのタイムだった。それから今日の宿泊先だが、テント泊が苦手な妻は山小屋、僕と娘はテントを予定していた。あとでこの選択を深く悔いることになろうとは、このときの僕はまだ知らない。
河童橋から上高地の森の中へ

バスターミナルから少し歩くと、河童橋が見えてきた。
朝の日差しが穂高の峰々を照らしあげ、梓川の水がエメラルド色に輝いている。南国の海のように透明度が高い。槍ヶ岳や涸沢から流れ込む水が冷たすぎて、プランクトンが棲めないのかもしれない。


橋のたもとに河童橋の由来を説明するパネルがあった。僕はこういうのをひとつずつ読んでいきたい性分なのだが、女性陣は素通りしていく。その代わり、五十メートル先に食べ物の出店があることは、ケモノ並みの嗅覚で察知する。

ケモノといえば、河童橋からさらに先に進んだ小梨平キャンプ場では、ニホンザルの群れがのんびりとグルーミングをしていた。以前、陣馬山で出くわした猿はガラが悪く、因縁をつけられそうだったから、僕らは目を伏せて通り過ぎた。
ここの猿は顔つきや物腰が穏やかで、毛並みもいい。キャンパーのおこぼれをもらっているのだろうか。道を尋ねたら親切に教えてくれそうだ。


横尾に到着
涸沢カールへの登山口にあたる横尾に着いたのは午前十時頃だった。河童橋から十キロ、涸沢カールまであと六キロ。距離的には三分の二を歩いたことになる。
横尾には食堂や山荘、テント場、ログハウス風の巨大なトイレなどがある。写真を撮っていると妻にカメラを奪われた。無理やり写真を撮られる。僕はもともと写真嫌いだし、ソロの登山では自分の写真なんて撮らない。貴重な一枚かもしれない。

山荘前の長い吊り橋を渡る。ここまでは平坦な道が続いていたが、いよいよ登りが始まる。それにしても梓川の流れはあいかわらず清冽である。娘の背中を見ていたら、いたずら心が湧いた。吊り橋を軽く揺すってみる。
「わっ」娘が小さく声を上げ、手すりにしがみついた。うふふ。
本谷橋から先が、本当の登り
吊り橋を抜けてさらに行くと、左手に高さ六百メートルの絶壁、屏風岩が見えてきた。壮観だ。ロッククライミングの名所らしい。今日は誰も張りついていない。さらに登り坂を歩くと、二本目の吊り橋、本谷橋が現われた。


娘は意気揚々と渡っていく。僕もあとに続いた。軽く揺すってみる。
「わっ」娘が声を上げた。でも今回は最初から手すりをつかんでいる。学習したようである。
「うふふ。あいかわらず怖がりだな」
「わたしは石橋を叩いて渡るタイプなの」娘が振り返り、僕に向かってあっかんべえをした。お茶目なやつだ。
吊り橋を渡った先は休憩ポイントになっていた。たくさんの登山者が腰を下ろして、軽食を食べ、飲み物で喉をうるおしている。僕らも一息つくことにした。

ナッツや飴玉をつまんで立ち上がる。
このあたりから景色は一変する。
穂高連峰の主稜線がどんと目の前に現われる。ここからはさらに本格的な登りだ。妻と娘の顔に疲労の色がにじむ。僕の顔は疲労一色だったろう。Sガレというガレ場を越え、紅葉で埋めつくされた渓谷を登っていくと、ついにカールが見えてきた。

「あともう一息だぞ」娘を元気づけながら、実は自分にハッパをかけていた。なにせ徹夜に二日酔いの身だ。体力はとうに底をついている。眠くてしょうがない。

ついに念願の涸沢カールへ
午後二時二十分、僕たちは涸沢カールに到着した。
赤、黄、橙、緑——。穂高の岩峰を背にカラフルなテントが無数に並んでいた。山岳用テントの見本市のようだ。高い峰々に囲まれたカールの内側で、ナナカマドやダケカンバが燃えるような色彩を放っている。
日本の山でこれほどドラマチックな景観が見られるとは、八時間近くかけて登って来たかいがあったというものだ。筆舌に尽くせぬ大自然のパノラマを、妻と娘もただ黙って見つめていた。

受けつけで幕営料の支払いを済ませ、コンパネ——ガレ場の上に敷く平らな板をレンタルしようとしたら、なんと一枚も残っていなかった。早い者勝ちだという。ああ、と僕は天を仰いだ。今夜はこのゴツゴツした岩の上で寝るのか。眠れるだろうか。不安がどっと押し寄せてくる。

テントを張り、夕食はメスティンでご飯を炊いた。その上から三種のレトルトカレーをかける。他にも何か食べたはずだが、ほとんど覚えていない。誇張抜きにこれまでの人生でいちばん疲れていた。焼酎のお湯割りを何口か喉に流し込んだら視界がぐらぐら揺れた。やっと眠れる、と思った瞬間には意識が飛んでいた。
その一時間後、尿意をもよおして目が覚めた。テントの外に出ると雨がぽつぽつと降り出していた。妻の宿泊先の山小屋である涸沢ヒュッテのトイレまで行って帰ってくると酔いがだいぶ醒めた。それから結局、僕は大小の岩の上でまんじりともせず、何度も寝返りを打ちながら夜を明かしたのだった。
翌朝、天候が急変

朝、起き上がったら、全身がぎしぎしときしんだ。あちこち痛い。岩の角が体にずっとあたっていた。体脂肪率一桁の体を呪った。隣で娘が熟睡している。どこでも寝られるタイプなのだ。心底うらやましい。妻は涸沢ヒュッテのお布団でぐっすり眠ったそうで、「快適でよかったわ」と言っていた。よかったね。
そぼ降る雨のなか、のろのろテントを撤収し、僕たちはカールをあとにした。他の登山者の姿はすでになかった。登ってくる人もいない。天候が急変し、予報が大雨に変わったからだ。山小屋で雨具を着こんでいたときもキャンセルの電話がひっきりなしにかかってきていた。
三人でとぼとぼ下っていく。
すると前から初老の女性が一人で登って来るのが見えた。ちょっと驚いていたら、彼女が突然、目の前で糸の切れた操り人形のようにその場にくずおれた。
「パパ!」娘が叫んだ。
「だ、大丈夫ですか」僕と妻は慌てて駆け寄って声をかけた。
聞くと、足が急に動かなくなってしまったのだという。後ろから別の登山者がやってきたので、しばらく一緒に介抱する。
「もう大丈夫。ありがとう」女性が何度もそう言うので、僕たちは出発することにした。女性はまだ地面に座り込んだままだったから、後ろ髪を引かれる思いだったのだが、バスの最終便の時間が迫っていた。
去り際に娘が心配そうに言った。「おばあちゃん、無理しないでね。何かあったら山小屋に電話して迎えに来てもらうといいと思う」
「まあ」女性が目を見開いた。「そうね、そうするわ。あなた、いい子ね。それにお利口さん」
娘の顔がほころんだ。
松本で蕎麦を食べ、嵐のなかを東京へ
雨の上高地は、木々の香りも森の気配も昨日よりずっと濃くて、それはそれでとても美しかった。帰りも同じ場所で吊り橋を軽く揺らしてみたら、娘は「まあ」と言った。その言い方がさっきの女性そっくりで、なんだかおかしかった。
帰り道、松本市内に良さそうな蕎麦屋を見つけ暖簾をくぐった。僕と妻は二八や蕎麦がき、娘はうどんや唐揚げなどで腹を満たした。
松本から高速に乗ると、車が蛇行するほどに風が強かった。大粒の雨が激しくフロントガラスを打ちつける。あの初老の女性は無事に山小屋まで辿り着けたのだろうか。いまだに気になっている。
家に着いたら深夜零時をとうに過ぎていた。
翌日、僕は妻と娘に宣言した。
「また行こう。涸沢」
二人は黙って顔を見合わせた。
——次回はソロだな。
- 猿に囲まれ、クマと見間違え、日が暮れた——陣馬山親子登山の記録
- 下山のとき、いつも蕎麦のことを考えている——あご出汁と十割、二八、蕎麦風味のうどん
- 日本酒の頼み方がわからない
- 眠れない夜は足が冷えている——頭寒足熱という、古くて正しい不眠のセルフケア
- ごはんを炊く、ということ——1300年続く、いちばん静かな祈り
- ヒルは父を選ぶ——塩のよく効いた鍋割山で食べる鍋焼きうどん
※このブログの情報は、医療機関の監修を受けておらず、病気の診断、治療、予防を目的とするものではありません。記事内でご紹介している効果効能についても栄養素や成分に関するものであり、商品やサービスに関するものではないことにご注意ください。体調不良が長く続く場合は、医療機関で相談することも大切です。食卓でできること、専門家の力を借りること、その両方が、あなたの体を支えます。

