氷がほどける音

深夜の台所

深夜の台所で飲む酒は、ちょっとずるい。

家族はもう寝ている。流しは片づいて、拭き上げた調理台が薄暗がりで鈍く光っている。一日の仕事をぜんぶ終えた場所で、何もしない人間として座る。この椅子は昼間、弁当を詰める椅子だ。いまはただ座るための椅子である。同じ椅子なのに、座り心地がちがう。

グラスの中で、氷がほどける音がした。

その音を言葉にすると、

——からん。

でも実際の音はもう少し長い。氷が傾いて、グラスの内壁を滑って、水面が一瞬だけ揺れてまた静まる。その一部始終を、人はまとめて「からん」と呼んでいる。ずいぶん大雑把な要約だと思う。世界はいつも言葉より少しだけ長い。

酒を飲むと、その少しだけ長い部分が見えてくるような気がする。

しらふの頭は要約の名人だ。氷の音はからん、娘はきのこ嫌い、明日は燃えるゴミの日——。効率よく畳んで、抽斗にしまっていく。

ところが三杯目あたりから要約の手がゆるむ。畳みかけの世界が、そのへんに広げっぱなしになる。氷の音は長くなり、換気扇の低い唸りに気づき、冷蔵庫が思い出したように身震いするのが聞こえる。昼間は一度も聞こえなかった音だ。聞こえなかったのではない。聞かなかったのだ。

これは感覚の鈍麻だろうか。酔いは判断を鈍らせるというし、実際、鈍っている。でも、鈍った刃物にしか切れないものがたまにある。

たとえば、感謝だ。

しらふのとき、僕は感謝を「する」。世話になった人に礼を言い、いただきますと手を合わせる。正しい感謝だが、どこか事務のにおいがする。

ところが深夜、酔った頭でぼんやり座っていると、感謝が向こうから「来る」ことがある。誰にというわけでもなく、こうしてただ座っていられることがありがたいのだ。

屋根がある。家族が寝息を立てている。氷がある。氷を作る機械がある。その機械を動かす電気がいまも黙って来ている——。

数え始めるときりがないから、まとめて頭を下げる。こういう夜のために、人は神さまという言葉を持っているのだろう。

体を壊していた頃、この時間はなかった。

夜は痛みと交渉する時間で、台所は遠い国だった。だから知っている。深夜に台所で酒が飲めるというのは、健康という土台の上に、平和という柱が立ち、その上にようやく載る小さな屋根なのだ。屋根だけ見れば、ただの晩酌である。でも下から見上げれば、ずいぶん高いところにある。

グラスが空いた。

もう一杯やるかどうかの審議が始まる。体はもういいと言っている。頭はまだ何か考えたがっている。こういうとき、大抵は頭が勝つのだが、勝った頭はろくなことを考えない。それも知っている。知っていて、審議は続く。

窓の外で、夜が更けていく。

氷をひとつ、グラスに足した。

からん、と要約された音がした。

その続きの長いところを、僕は一人で聞いていた。