長い夜(第五章) 水子の霊と水垢離

霊能者の家

芦屋から戻ったら、もう夜だった。

僕はさっそく例の「修行」を行なうことにした。

いまならわかるけれど、あれは修行ではなく、水垢離みずごりの一種だ。いわゆるみそぎである。

最初の水垢離のあと、家鳴りはぴたりと治まった。

次の日も風呂場で水をかぶったら、やはり家鳴りは来なかった。

さらにその翌日——。僕は水垢離をやめてしまった。

二月だった。水道の冷たい水をかぶるのはさすがにつらい。入浴のたびに長い儀式がついてくるのも面倒だった。でもそれ以上に、目に見えない何かの存在を認めたくないという気持ちが強かった。

水垢離を一か月も続けたら、すでに片足を突っ込んでいる不浄の世界に両足とも踏み込んでしまう。引き返せなくなるのではないか。

水子の霊の話も引っかかっていた。心当たりなどどこを探してもなかった。だから僕は芦谷さんを完全に信用したわけではなかった。いや、正確には疑う理由がほしかったのだ。

霊に憑りつかれたなどという話を事実として受け入れたら、それまでの平和な日常が音を立てて瓦解してしまう気がしたからだ。

水垢離を二日で放り出したのも同じ理由だったと思う。それでもし家鳴りが再開しなかったら、あれはやはり霊の仕業なんかではなかったということになる。それを確かめたかった。

事実、その後ふたたび家鳴りを聞くことはなく、僕は内心、ほっとしていた。

ひと月後、玲子さんと連れ立ってまた芦屋へ行った。

芦谷さんは僕の顔を一目見るなり、ふふと笑った。

「あなた、二日でやめたわね」

心臓が跳ねた。どうしてわかるのだ。

「しっかりご祈祷したから、もうこっちの世界にはいてはらへん。部屋も静かになったでしょ? もう大丈夫」

芦谷さんは立ち上がって、隣の部屋へ行き、それきり姿が見えなくなってしまった。ろくにお礼を言うこともできず、僕は玲子さんとともにその家をあとにした。

それから一年後のことだ。

実家の食卓で母と話しているとき、同じ町内に住む二つ年上の従姉いとこの話になった。結婚するらしい。めでたいね、と相槌を打っていたら、母がふと言った。

従姉が一年と少し前、子どもを堕ろしていたのだと。

「あのときは大変やったみたいや。そやから無事に結婚できて良かった良かったいうて、本家の人らもえらい喜んではるわ」

箸が止まった。

すっかり忘れていたのに、母の一言で欠けていたピースがすべて埋まったのだ。背筋がぞくっとした。

あれから何十年も経った。

かつて僕を振り回したあの出来事は、不思議ともう怖くない。こうして文章を書いていても心は静かなものだ。世界の見え方があの頃から大きく変わったからだろう。

いつからか僕は、人間の意識が世界を形作っていると考えるようになった。心の深いところ——無意識と呼ばれる領域が、僕らの世界に強い影響を与えていると感じている。

心霊現象というものについても、幽霊が存在するかしないかというのは、問いの立て方を最初から誤っている。信じるか信じないか。それがすべてだ。

この世界の実相は、僕らの目に映るものとは別物なのだろう。人間の五感が知覚できるものなどたかがしれている。そんなふうに考えると不安になってしまいそうだが、僕はむしろ繭の中にいるような安心感に包まれている。

自分は大きな何かの中にある——そんな感覚が、あの不気味な出来事の手触りを変え、意味をくれた。

ばらばらの支流のようだった過去の体験ひとつひとつが、年とともに一本の大きな流れとなり海に向かい始めている。

いまはただ、その流れに身をまかせている。