我が家の貧乏神は、書斎に住んでいる

貧乏神

我が家には、貧乏神がいる。姿を見たわけではない。だが月末になると財布が軽い。給料日前になると冷蔵庫が広い。状況証拠はそろっている。

やはりいる。

楽しみに取っておいたプリンが冷蔵庫からたまに消える。家族は食べていないという。ガラス瓶に入れている小銭がごっそり減っている。家族は誰も使っていないという。一緒に入っている千円札は残っているのに、小銭だけなくなっているのだ。

そういえば先日、トイレの便器に茶色いものが流されず残っていた。娘の悲鳴を聞いて見に行ったら、目を三角にして睨まれた。僕ではない。断じて。

きっといる。

貧乏神というのは、八百万の中でも異色の神さまだ。普通、神さまは祀られる側だが、彼だけは追い出される側だ。伝承によれば、痩せて薄汚れた老人の姿で、渋うちわなんぞを持ち、怠け者の家や散らかった家に好んで住み着くという。履歴書を見る限り、ただの困った居候である。

先日、夕飯の席で議題に上げてみた。我が家に貧乏神がいるとしたら、どこに住んでいるか。

「パパの書斎」 娘が即答した。考える時間が一秒もなかった。

「あの本とCDの山でしょ。絶対あそこ」妻も続く。

満場一致だった。被告人不在のまま、いや被告人の目の前で、貧乏神の住所が確定した。

心外である。だが反論しながら、僕は書斎の光景を思い浮かべていた。

読みかけの本が積み上がった山脈。大量のCDの断層。確かに痩せた老人の一人くらい、あの谷間に住めそうな気はする。家賃も取られず、本は読み放題、音楽は聴き放題。貧乏神にとっては優良物件かもしれない。

追い出す方法は、昔からいろいろと伝わっている。大晦日に送り出す風習のある土地もあるし、長野県には貧乏神を祀る神社まである。参拝者が御神木を叩いて蹴って貧乏神を追い払うのだという。神さまを……叩く? 八百万の世界は時々、神さまの扱いが雑である。

ところが、である。昔話を調べていて、僕は妙な話に行きあたった。

日本各地に伝わる「貧乏神と福の神」という昔話がある。貧乏な夫婦がこつこつ働いて少しずつ暮らし向きを良くしていく。すると大晦日の晩、家の隅で誰かがめそめそ泣いている。長年住み着いていた貧乏神だ。「お前たちが働き者になったから福の神が来る。わしはもう出ていかねばならん」

さて夫婦はどうしたか——。地域によって結末は異なるのだが、有名なものでは、夫婦は長年一緒にいた貧乏神に情が移ってしまい、なんと貧乏神に加勢して、やって来た福の神のほうを追い出してしまうのだ。

どうかしている。どうかしているのだが、わかってしまうのが悔しい。

日本人は、追い出すべき疫病神にすら、長くいれば情をかけてしまう民族なのだ。そもそも貧乏神という発想そのものがよくできている。

貧しさや不運を外から来た居候のせいにする。そうすれば自分を責めずに済む。家族を責めずに済む。「うちには貧乏神がいるからなあ」と笑った瞬間、貧乏は同居人との笑い話に変わる。しかも憎みきれない、しょぼくれた爺さまの姿で。

八百万の世界には、ありがたくない神さまにもきちんと席が用意されている。

「で、追い出すの? 書斎の」と妻が言う。僕は本とCDの山を思った。あれを片づければ、確かに彼は出ていくのだろう。

「……もう少し、様子を見よう」

いてくれたほうが都合がいいこともある。