我が家の食卓には、見えない国境線がある。納豆をどこまで混ぜていいかという国境線である。
僕は関西の生まれだ。小さい頃、食卓に納豆は存在しなかった。初めて食べたのは少し大きくなってからで、正直、最初は箸が進まなかった。それがいまでは毎朝食べている。人間は変わるのだ。
ただし僕の納豆の食べ方には流儀がある。混ぜるのは五十回まで。タレは使わず、混ぜたあと醤油を垂らす。薬味は刻みねぎのみ。静かに、つつましく、糸を立てすぎずに食べる。納豆に対して礼儀正しいのだ。改宗者というのは、得てして敬虔になる。
一方、妻は生まれも育ちも関東だ。水戸の血を引いている——かどうかは知らないが、妻の納豆はとにかく激しい。ミックス、ワイフ、ミックス——。小鉢を左手で押さえ、両肘を鋭角に折り、何かの儀式のようにかき混ぜる。白く泡が立ち、糸が雲のようになるまで手を休めない。タレは混ぜる直前。辛子は倍。キムチを追加。仕上げにもうひと混ぜする。
ある朝、数えてみたら百五十回混ぜていた。
「混ぜすぎじゃないか」
「これが正式」
「正式って、誰が決めたの」
「水戸」
藩命であった。
調べてみると、納豆の混ぜ方には諸説あるらしい。かの北大路魯山人は四百二十四回混ぜたという説まである。四百二十四回。もはや調理でなく修行である。魯山人が水戸の生まれでないことは、妻にはまだ言っていない。
娘は、どちらの国に属するのか。
実は微妙なのだ。混ぜるのは百回前後。タレは混ぜながら入れる。つまり中間派だ。両国の血を引く子は、国境の上をうまく歩いている。ただしキムチを入れる点では母の国に属し、刻みねぎを嫌う点ではどちらの国にも属さない。第三国である。
先日、家族三人で夕飯を食べていたら、娘がぼそっとつぶやいた。
「うちって、納豆の食べ方バラバラだね」
やっと気づいたか。同じ食卓で、同じ納豆を三者三様に食べている。五十回の僕と、百五十回の妻と、百回の娘。誰も誰かに合わせない。合わせろとも言わない。互いの領土を尊重し、平和を維持しているのだ。
それに納豆というのは、大豆が納豆菌に出会って姿を変えた食べ物である。豆のままでいることをやめた豆だ。食べ方くらいそれぞれ好きにすればいい。
国境線はあっていいのだ。戦争にさえならなければ——。と、頭の中できれいにまとまりかけていたところに、妻が僕の小鉢を指さして言った。
「混ぜ足りないんじゃない、それ」
国境侵犯である。
けしからん。僕は小鉢を静かに持ち上げ、おもむろに五十一回目を混ぜ始めた。
敗北ではない。これは外交だ。
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