「ステナイタベル」と「サステナブル」——祖母譲りの「もったいない」思想

めざしと七輪

最近、どこを見渡しても「フードロス削減」や「SDGs」など、聞き心地はいいけれど、どこか遠い言葉があふれている。

食べ物を無駄にしないのはすばらしい。だが、そんなおしゃれな横文字が流行るずっと前から、僕らの台所にはもっと身近でおおらかな「もったいない」の思想があった。

祖母の「もったいない」

子どものころ、祖母が七輪で焼くめざしが時折、黒焦げになった。子どもながらに「おばあちゃん、これは……」とためらいがちにいうと、祖母はにっこり笑ってこういった。

「炭は体にええんやで。お腹の掃除をしてくれるんや」

なんとなく納得して、真っ黒なイワシにかじりついてみたが、子どもの舌にはやはり苦く、顔をゆがめて「うへっ」と吐き出した。

すると祖母は残りをぱくりと口に入れ、笑いながらおいしそうに食べていた。

あれから何十年かたって知った。

昔の人たちは、解毒や胃腸の健康のために炭を食していたそうだ。炭の摂取は民間療法のひとつでもあったという。

厳密にいうと、炭と焦げは異なる。いまのは炭——竹炭の話で、焦げすぎためざしは別物だ。ちなみによく耳にする「焦げを食べたら癌になる」というのも現代では科学的に否定されている。

とにかく祖母はいつもそんな調子だった。焦がしたものも古くなったものも、僕の食べ残しも「ああ、もったいない」といいながら、頓着せずに食べていた。

それを思うと、現代のサステナブル(持続可能性)は、どこかマニュアル的で窮屈に感じてしまう。「買い過ぎの防止策」「食材の使い切り方」「期限切れ前の活用法」——こんなふうにルールと数字に寄りかかって、完璧なエコをめざそうとするからだろう。

祖母の「ステナイタベル」とは何かが根本的にちがう。ルールも数字もなく、ただ「もったいない」から食べてしまう。

そういう寛容さとゆるさがあれば、僕は十分な気がするのである。

はやま

古いものを食べても、祖母がお腹を壊すことはありませんでした。腐ったものを嗅ぎ分ける嗅覚も人一倍鋭かったから(笑)

猛禽の眼に射抜かれて

わが家には、荷物置き場と化している部屋がある。棚の前にさらに大きな段ボールが三箱ならぶ。なかにあるのは大量の食料品だ。餅や菓子、砂糖、調味料、缶詰……いずれも妻が買ってきたものだ。

冬眠でもなさるおつもりかと聞くと、「安売りしてると、どうしても買ってしまう」とのこと。まるで百舌鳥(モズ)である。

モズは獲物を見つけると、満腹でもとりあえず捕まえてしまうという習性がある。それを木の梢に突き刺したのが、有名な「モズのはやにえ」。

ただ彼らは、そのほとんどを後日戻ってきて食べるという。われらが妻は冷蔵庫のものも含め、買ったことを忘れてしまうことが少なからずある。

「鳥のほうが利口だね」とつい口走ってしまって、僕は縮みあがった。鋭い目がこちらをじっと見つめていたからだ。あの目は、モズではなく猛禽だった。

しかしわが家では期限切れのものでも、煮るなりの焼くなりして工夫して食べている。祖母のめざしと同じである。ただ「もったいない」から。

マニュアルを捨てて台所に立とう

子どものころから「ルール」を押しつけられることに無条件に反発を覚える性分だった。だから「サステナブル」に違和感を覚えるのかもしれない。

反骨精神? そんなたいそうなものではない。何かを変えたいわけではなく、何かが自分を変えてしまうのを本能的に恐れていたからだろう。

翌朝、ひさしぶりにめざしをグリルにならべた。

ぱちぱちと皮がはじける音。台所に煙と香ばしい匂いが広がりはじめる。取り出してみると、尻尾のあたりが少し黒ずんでいた。

ひと口かじる。苦い。苦いが、香ばしい。

その瞬間、煙になかに祖母の笑顔がよみがえってくるような気がした。

「炭は体にええんやで」