東京に出てきたのは、作家になりたかったからだ。
手始めに児童書専門の出版社に転がり込んだ。その後、すぐに雑誌の世界へ。文章力を磨くには、書くことを仕事にしてしまうのが一番てっとりばやいと考えたからだ。
三十代の後半になって、そろそろいけると思った。腰を据えて書くことにした。寝食を忘れ、来る日も来る日もキーボードを叩き続けた。
そのころ人に会うと決まって、「顔色、悪いぞ」といわれた。「最近ゆっくり飲むヒマがなくてな」と返していた。
半年後、長編一本と短編一本が仕上がった。
そのあたりで、体が壊れた。
野沢尚さんのこと
若いころ、脚本家・小説家の野沢尚さんにインタビューしたことがある。
昔から大ファンだった。ドラマの『眠れる森』の脚本を繰り返し読み、構造を分析したりしていた。取材が終わったあと、ノートの表紙にサインを書いてもらった。取材相手にサインをせがんだのは、後にも先にもその一回きりだ。
その日、野沢さんの顔色がひどく悪かったことをいまでも忘れられない。某局の大河ドラマの仕事が難航しており、書き直しを繰り返していた時期だと、あとから知った。
しばらくして、野沢さんはみずから命を絶った。
それを知ったとき、僕の体は指先まで凍りついた。訃報を目にした瞬間、時間がとまったようだった。窓外のざあざあという雨音が急激に大きくなっていくのを感じた。
才能があり、功成り名を遂げ、世間からは先生と呼ばれる立場にいた人だ。僕の夢見る道のはるか先を歩いていた人だった。
夢をかなえることが、人を幸せにするとはかぎらない。そんなことを考えるようになったのは、それからずっとあとのことだった。
夢も目標もどこかへ消えた
闘病中、死にたいとまではいかないものの、消えてなくなりたいと何度思っただろうか。それくらい身体的な苦痛は強かった。
苦しくて眠れない夜が続いた。そんなとき、どういうわけか、いまは亡き祖父母の家が頭に浮かんできた。
家の前を流れる沢の音。夏でもひんやりとした土間の感触。裏庭の貯水槽に山水が流れ込む静かな音。山から聞こえるひぐらしの鳴き声。立派な虫とり網を手に前を歩く祖父の背中。祖母の背に負われて聞いた子守唄……。
あのころの僕には、夢も目標もなかった。人生は何かを達成するためにある、そんなことは露も思わなかった。それでも毎日、十分に満たされていた。
回復後、夢も目標もきれいさっぱりなくなっていた。未練も執着もない。自分はいまここにある——生きている、それでもう十分だった。晴れた日には、朝の太陽の日差しを浴び、雨の日は湿った大気を肌に感じる、たったそれだけでもう——。
老子とショーペンハウアー
老子はこう話す。「無為にして、為さざることなし」——自然の流れに身を任せ、余計なことをしないでいるほうが、かえって物事の本質がよく見え、何事も成し遂げやすくなると。
いまの僕が感じていることを、二千年以上前に言葉にした人がいた。
ショーペンハウアーは、人間を苦しめるのは強い欲求だと語った。欲求が満たされると次の欲求が生まれる。満たされなければ苦しむ。どちらに転んでも、人は苦しみ続ける——。
欲求に振りまわされていたころの自分が、静かにほどけていくようだった。
二人の言葉を本で読んだとき、すとんと腹に落ちた。自分の感覚を言葉にしていた人たちがもういたのだと。
ザックを下ろして軽やかに
しばらくして、山に登るようになった。晴れやかな稜線をひとりで歩きながら、ある日こんなことを考えた。
——人生とは何かを成し遂げるためにある。二十歳くらいからずっとそう思ってきたけれど、たぶんそうではないのだろう。僕は、人生の獣道にずっと迷い込んでいた。
もちろん生きていれば日々、さまざまなことが起きる。でもそのすべては、人生という奔流のなかでほとんど勝手に起きている。自分の力でそれを予測したりコントロールしたりすることは不可能だ。
これまでえらく重たいザックを背負って歩いてきたな、そう思うと苦笑いが漏れた。
夢も目標も消えてしまったけれど、代わりに目の前のことを手を抜かず丹念に行なうようになった。家事、仕事、遊び——。余計なことは考えず、ただ没頭する。これを書いているこの瞬間だってそうだ。
その繰り返しと積み重ねが、いまよりずっと遠くへ僕を連れて行ってくれる。何の確証もないのに、そう確信している。
なんだかとてつもなく呼吸が楽になったようで、毎日を平らかに過ごしている。
あのころ背負っていたザックは、もうどこにもない。
はやま
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