ブックスキャナーを買った。
書斎の壁二面には、床から天井まで本棚がしつらえてある。いつだったか、それが満杯になり、いまでは本の前に本がならんでいる。よくもまあ……。
多すぎる――何年も前からそう思っていた。書棚はとっくに限界を超え、床にも積みあがり、押し入れの奥にも段ボール箱が眠っている。これをぜんぶデータ化して、本棚をすっきりさせれば——そう思って購入した。
使ってみた。
たしかにサクサクとスキャンできる。PDF化するのに、新書なら一冊10分ほどだろうか。
でも、読めない。いや、正確には「読みにくい」のだ。
紙をパラパラとめくって流し読みする感覚が、画面では再現できない。ページを前後に行き来しながら読むという、あの独特の立体感が失われる。なにより付箋が貼れない、線が引けない、余白に書き込めない、これが地味に痛い。
そういうわけでいま、ブックスキャナーは部屋の片隅で静かにしている。
はやま
本棚は地層
本棚の前に突っ立って眺めた。
川端、太宰、芥川、三島、漱石——日本文学がずらりと並ぶ一角。司馬遼太郎や池波正太郎の歴史小説が背を向ける一画。江戸川乱歩から東野圭吾まで、ミステリーは何でも読んできた。
純文学、ノンフィクション、哲学書。生物学、心理学、宗教学、歴史と地理。食や健康の本は体を壊したときに読み漁った。脚本(向田邦子、山田太一、ニール・サイモンほか)。シェイクスピア全集。
辞典もたくさんある。いまはネットがあるから長らく使っていないが、国語辞典だけで三冊か四冊ある。それから村上龍と村上春樹がまとまってならぶ一角。
これは本棚ではなく、地層だと思った。
一番下にあるのが、「小説家になりたかったころ」の地層。龍と春樹は十代のときに好きになった。大人になってから大人買いしてそろえた。いまはもう手にとることもない。だが、捨てられない。
なぜ捨てられないのか。
しばらく考えてみたが、答えはわりと単純だった。彼らの本はアルバムのようなもので、それを捨てることは、十代の自分を捨てることに近い感覚がある。本を置いておくのは、「あのころの自分」を保存しておくのと同じなのだと思う。
古本屋には売れない
僕の書棚の本は、古本屋に持ち込めない。
ページのいたるところに付箋が貼ってある。赤ペンか蛍光ペンで線が引いてある。余白には思ったことや疑問、ときには反論のような言葉が走り書きされている。そして表紙の裏に、読み終えたときの感想が書いてある。つまらなかった本を誤って再読しないための、自分への忠告として。
本を読むとき、僕は対話をしている。著者と、それから過去の自分と。
何年も前に線を引いた一文に、あらためて目がとまる。「なるほど、20年前の自分はここを重要だと思ったのか」。当時は重要だと感じた部分が、いまはどうでもよくなっている。いまの僕は、20年前とはまったく別の地平に立って世界を眺めている。当たり前のことだが、書き込みのある本に教えてもらうまで、そのことを実感できていなかった。
はやま
お金がなくても、本だけは買っていた
若いころは、お金がなかった。
それでも本だけは躊躇なく買うと決めていた。一万円近い本でも、読みたいと思ったら買っていた。神田の古書街にもよく通った。古びた店の棚を眺めながら、知らない著者の本を手にとり、パラパラと流し読みして買うかどうか決める。あの感触は、画面で本を検索する感覚とはまったく別のものだ。
そのころ出会った本が、いまも書棚にある。
立花隆の『知のソフトウェア』。人間の思考は「ソフトウェア」であり、読書はそのOSを書き換える行為だ——。そう彼はいう。情報を集めることより「問い」を立てることが重要で、思考は外に出すことで強くなる、つまり書くことで整理されると。
近くには、小林秀雄の『読書について』がある。小林は読書を情報収集とは見ていない。著者の精神に触れる行為と考えていた。本を「理解」しようとするな、まず「感じろ」と。よい文章には書き手の切実さがにじむ。
ショーペンハウアーの『読書について』。彼の主張は辛辣だ。読書とは他人に考えてもらう行為にすぎない。読みすぎは自分で考える力を奪う。隙間の時間をすべて読書で埋めると、思索の時間がなくなる。読書は摂取、思索は消化であり、消化なき摂取は身にならない。「読書しすぎて愚かになった学者が多い」とまでいいきる。
三人が、三つの方向を向いている。
立花は「どんどん読め、外に出せ」と話し、小林は「感じろ、魂で触れろ」と語り、ショーペンハウアーは「読みすぎるな、考えろ」という。全員が正しいようにも思えるし、三人全員が矛盾しているようにも思える。
けれども本棚の前に立つと、この三人の声が不思議とひとつに聞こえてくる。たくさん読んで、感じて、そのあと静かに自分で考える——。それだけのことを、三人はそれぞれの言葉で語りかけている。
はやま
本棚は、自白書
「本棚はその人の履歴書だ」とよくいわれる。
でも僕は、こう思う。
本棚は自白書――。
履歴書は整えられている。見せていい部分を、見せていいかたちで記録したものだ。本棚はちがう。何を信じていたか、何を恐れていたか、何に憧れていたか、どこへ行きたかったのか——。そのすべてが、雑然と肩をならべている。
クジラとイルカの本が10数冊以上あった。なぜそんなに買ったのかいまとなっては思い出せない。でもたしかに熱中していた時期がある。それが本棚に残っている。
『果てしない物語』『ゲド戦記』『ナルニア国物語』——。古典ファンタジーもたくさんある。ずいぶん昔に書いた和風ファンタジーをいま推敲しているが、そのつながりを本棚は黙って教えてくれる。
ブックスキャナーが「本多すぎ問題」を解決してくれなかったのは、いまとなっては少しよかったとも思う。データになった本には、付箋も書き込みも、表紙の裏の感想も残らない。本棚に余白ができる代わりに、自白書の中身が減ってしまう。
この書き込みだらけの古い本を、もう少し手元に置いておくことにしよう。
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