世界が名前をつけなかった光――訳せない言葉こそ、もっとも味わい深い

木漏れ日

「いただきます」を英語に訳せといわれたら困る。

「Let’s eat.」では何かが抜け落ちる。「Thank you for the food.」でも何かがちがう。どう訳しても「いただきます」の六文字に込められたものを他の言語に移し替えることはできない。

日本語には翻訳できない言葉がある。そういう言葉こそ、もっとも味わい深いと僕は思う。

いただきます

「いただく」の意味についてはすでに書いた。神さまへの供え物や、目上の人から賜ったものを、昔の人はうやうやしく頭上に掲げて受け取った。だから食前に手を合わせるとき、僕らはこう宣言しているのだ。

——食材の命、農家の人の汗、料理してくれた人の手間、これらをまとめて頭の上に掲げるほど大切に受け取ります。

英語圏にも食事の前の言葉はある。フランス語から借りた「Bon appétit」(よい食欲を)は広く使われているが、あれは食べる側の食欲に向けた祈りだ。神さまへの感謝を捧げる「Grace」もあるが、向かう先は神さまだ。食材そのものと、食に関わったすべての人へ向けた「いただきます」とは根本からしてちがう。

そんな感謝の言葉を僕らは一日に三度、ほとんど無意識に口にしている。これほどのものを日常に埋めこんだ言語は、そうはないだろう。

木漏れ日

二〇一四年ごろから、英語圏のSNSで「komorebi」という言葉が広まりはじめた。

木漏れ日——葉と葉のあいだから差しこむ光のことだ。日本人には何の変哲もない言葉であるが、英語にはこれに対応する一語がない。木の葉ごしに漏れ落ちてくる日の光、と説明するしかない。それをたった四つの音で言えることへの驚きが、世界中で共有されたのだ。

木漏れ日だけではない。物の哀れ、侘び寂び——日本語では、世界がまだ名前をつけていなかったものに、すでに名前がついていた。

名前があるというのは、その感覚を大切にし、分かち合ってきたということだろう。木漏れ日を美しいと感じ、その感覚をどうしても言葉にして残したかった人たちが、ずっと昔にいたのだ。

国境を越える感受性

もっともこれは日本語だけの手柄ではない。

ポルトガル語にはサウダーデという言葉がある。失われたものへの、甘さの混じった郷愁というニュアンスで、他の言語には訳せない。ドイツ語には「森の中にひとりでいるときの、あの満ち足りた孤独」を表わす一語がある。

木漏れ日に名前をつけた人たちと、森の孤独に名前をつけた人たちは人種はちがうけれど、たぶん同じ感受性の持ち主だったのだ。

どの言語にも訳せない言葉があり、それはその言語を話す人たちが何を愛してきたかの目録だといえる。

積ん読

先日、僕はブックスキャナーを新調した。

本棚に入りきらない本が、床に積み上がっていたからだ。読んでいない本も相当あった。というか、読んでいない本のほうが多い。それでも本屋に行けば新しい本に手が伸びる。積まれた山はたまに雪崩を起こし、僕の足元に襲いかかる。

これを「積ん読」という。買い集めた本を積みあげたまま、読まずに置いておくことだ。英語では 「book hoarding」(本の溜めこみ)と訳されることがあるが、何かちがう。「hoarding」には病気の気配と後ろめたさしかない。「積ん読」にはある種のおかしみと本への愛着が感じられる。「積んでおく」に読書の「読」を掛けた語呂合わせで、一八七九年の印刷物にはもう登場している。

明治の書生たちも、本を積んでは笑われていたのだろう。百四十年余り前の造語が、いまも僕の部屋の惨状を正確に言い当てている。

「積ん読」も二〇一八年にBBCが紹介して、英語圏で知られるようになった。自分を責めながら同時に笑い飛ばす。そういう芸当のできる言葉を持っていることを、僕は少し誇らしく思う。

僕の鼻がもっと高くなるのが「間」だ。

「間」は、空間と時間の両方を指す言葉である。部屋と部屋のあいだが「間」なら、しばらく待つあいだも「間」だ。英語なら「space」と「interval」に分けるしかないものを、日本語は一文字で表現してしまう。

音楽の休符も「間」、会話の沈黙も「間」、舞台の静止も「間」。茶道にも武道にも建築にも「間」があり、日本文化のあちこちに空白への美意識が埋め込まれている。

こうした言葉に対する信頼がもっとも露骨に表われた単語がある。「間抜け」だ。日本語では、愚か者は知識の足りない人ではない。「間」の抜けている人なのだ。言うことがいくら立派でも、割り込むべきでないところで割り込み、黙るべきところで黙れない人を、日本語は許さない。空白を読めないことが愚かさの定義になっている。

日本語にとって沈黙は、意味の欠落ではない。器なのだ。「間がいい」「間が悪い」に対応する一語も、やはり英語にはない。

翻訳できない言葉は、その言語を話す人たちが長い時間をかけて磨いてきた感覚の結晶だといえる。

木漏れ日を美しいと感じた人々。食べる前に目の前の命に手を合わせてきた人々。本の山を作りながら笑ってきた人々。空白を大切にしてきた人々——。日本語を使うということは、その人たちの目と舌と耳を、言葉ごと相続しているということなのである。

遺言状も手続きもなく、僕らは毎日それを受け取っているのだ。