音楽を消して歩いたら、世界は音で満ちていた——河川敷の芝生が教えてくれたこと

河川敷のセキレイ

ずいぶん昔のことだが、1か月間の断食をしたことがある。

1週間の断食については別の記事に書いたが、終わってからが大変だった。体が痩せこけていて、まともに食べることも歩くこともままならない。走りたくても走れない。自転車もしばらくは無理だ。

だから歩くことにした。

毎日、近くの河川敷へ出かけた。土手の下のサイクリングコースではなく、芝生の上を目的地もなく、ただぶらぶらと。

音楽を消したら、世界が聞こえてきた

走るときもサイクリングのときも、たいていスマホで音楽を聴いている。音楽があると、つらさが紛れる。テンポがあがる。時間が経つのが早い。

けれど、そのときはなんとなくイヤホンを耳に装着しなかった。体が弱っていたせいか、人工的な刺激がすこしうとましかったのかもしれない。

ところが——。

世界は音で満ちていた。

風がそよぐ音。川の水が流れる音。草が揺れる音。走っているときは、全部かき消されていた音だった。

セキレイとムクドリと、川面の魚

セキレイは白と黒のコントラストが美しい小鳥だ。芝生のあちこちにいた。

小さなくちばしで土をつついては、何かを引っ張り出して食べている。一羽が食べていると、また次の一羽がやってくる。いったい何を食べているのだろうと首をかしげながら、しばらく眺めていた。

走っていたら、一秒で通り過ぎていた光景だ。

ずんぐりしたムクドリの若鳥たちは、追いかけっこをしていた。人間の子どもと同じように遊んでいるように見える。ぶつかりそうになりながら草のうえを走りまわっている。

川のそばまで行くと、水面がきらきらと輝いていた。まぶしい。そのとき突然、バシャリと魚が跳ねた。銀色の胴体が一瞬だけ周囲に陽光をまき散らし、ゆっくりと落ちて、あとには波紋が広がった。

ああ、こんな世界がここにあったのか。

水際を歩いていたら、小さな家庭菜園のような一角があった。近くには、ブルーシートで覆われた小屋がいくつもある。菜園には何かが植わっていて、赤い花が咲いていた。ケシに似た花だった。ケシがどうかはわからないが、鮮やかな赤だった。

はやま

体が弱っていたからこそ、周囲の環境に対する解像度が極限まで高まっていたのかもしれません。あのセキレイたちは、いまもあの河川敷にいるんだろうか。これを書きながら、また歩きに行ってみようかと考えています。

走ることと歩くこと——健康効果の意外な真実

正直にいうと、それまで歩くことを運動とは思っていなかった。汗が出ない。心拍があがらない。「やった」感がない。運動ではなく、たんなる移動だと思っていた。

ところが調べてみると、歩くことと走ることの健康効果は、消費するエネルギー量が同じであれば、心臓や血管への恩恵はほぼ同等とされている。アメリカの研究機関が約4万人のデータを分析した結果、そういう結論にいたったそうだ。関節への負担が少ないぶん、むしろ長く続けやすいというメリットもあるという。

自然のなかを歩くことは、室内での運動にはない精神的な効果があるとする研究もある。風の音、鳥の声、光の変化——。こうした刺激が、ストレスホルモンを下げ、気分を整えるのに働くという。

断食明けの体が、図らずもわたしにそれを実感させてくれた。

速度を落とすと、チューニングが変わる

走るとき、わたしは世界を外側を「通過」している。音楽のなか、景色のなか、ただ前進する。それはそれで気持ちがいい。たっぷり汗をかけば、体も軽くなる。

歩くとき、わたしは世界の内側に「ある」。小鳥、魚、草木、花々と同じ場所にある。

いまは走る。けれど年をとって走るのがつらくなったとき、わたしは歩くだろう。

速度を落とすと、世界はこんなにも豊かだった。 それを知っただけで、歩くことはもう退屈ではないからだ。