いただきますとごちそうさま——ラジオDJと神饌と神人共食

神饌

娘が最近、「いただきます」と言うとき、僕のほうを見ない。下を向き、手を合わせ、テーブルに並んだ食事に向かって声をかけている。ある日、僕は聞いてみた。

「どうしてパパには言わないの」

「命をいただきますということでしょ? だったらパパじゃなくて、食べ物に向かって言わないとね」

ぐうの音も出なかった。僕が教えたからだ。

以前、巨大なレモンの被り物を頭にかぶり、黒いサングラスをかけたラジオDJに取材したことがある。命をいただくという話はそのとき聞いたのだ。ごちそうさまについても教わった。

馳走ちそうという言葉は文字通り、走りまわることを意味している。だから「ごちそうさま」は食べ物を育て、収穫し、加工し、運び、調理してくれた人たちすべてに「御」「様」をつけて感謝する言葉なのだという。食べられる側のくせによく知ってるな、と内心苦笑しながら、僕は「へえ」と素直に感心していた。

この記事に書いていること

神饌

のちに知ったことだが、「命をいただく」という意味は、実は近年になってつけ加えられたそうだ。本来の語源は、「頭(いただき)」に乗せるという所作にあるという。

目上の人から大切なものを受けとるとき、神さまへの供え物を下げていただくとき、昔の人はまず頭の上に掲げた。それがいつしか食事の挨拶となっていったのだ。つまり「いただきます」は、食べ物を神さまからの授かりものとして受けとる小さな儀式だったのだ。

これに連なる考え方に、神饌しんせんというものがある。神さまに捧げる食事のことだ。

神棚に毎朝供える基本の三品は、米と塩と水である。これは僕ら人間が生きていくうえで最低限必要なもので、神さまが召しあがるものも同じだ。お祭りなどのハレの日には、そこに御神酒おみき、魚、野菜、果物が加わる。季節ごとにいちばん滋養のある旬の食べ物を神さまに捧げ、そのあと人間がいただく。

神さまと同じものを食べる行為は、昔から神人共食と呼ばれる。祭りのあとの神人共食をとくに直会なおらいと言う。

神さまに捧げた食事には強い「気」が宿る。気というのは生命力や霊力、エネルギーといった意味合いで、僕らはそれをいただくことで、神さまの気を分けてもらう。すると気力が補充され、もとの元気な状態に戻ると昔から日本人は考えてきたのだ。

御神酒

数年前の元旦、僕がお宮参りをさせてもらったという隣町の神社へ行った。実家から車で三十分ほどの距離だ。訪れるのは二度目。一度目は赤ん坊だったから、何も覚えてはいない。

鳥居をくぐった先、五十メートルほど向こうに本殿があった。参道には鳥居まで参拝客が並んでいる。境内には大きな焚き火がふたつあって、子どもたちがその周囲を走り回っている。焼き芋でも焼いていそうだ。

東京の神社とはだいぶ雰囲気がちがう。アットホームというか、牧歌的というか、実になごやかだった。乳児期の記憶が体に残っていたのだろうか、なんとなく懐かしい気分になった。

参拝を済ませたあと、受験を控えた娘のために学業祈願のお守りやキーホルダーなどを買った。御神酒おみきをすすめられたので、ありがたくいただくことにした。僕は酒、妻と娘は甘酒だ。

——ぷはあ。

神さまの気を僕は一気に飲み干した。冷えた体に火がともる。指の先まで気力がみなぎっていくようだ。エナジードリンクよりよほど効く。

考えてみれば、酒というのも不思議なものである。

昔の人たちは、米から酒や甘酒ができるのを目の当たりにするたび、見えない神の力が働いていると信じていたそうだ。麴や酵母、発酵の存在を知らなかった時代、米と水が長い時間をかけて酒へと変わっていく過程は、まさに神の御業みわざに見えたことだろう。

日本酒に限った話ではない。

味噌、醤油、お酢、みりん——。いまでいう発酵食品の醸造は、神の仕事だと考えていた。その原料である五穀——米、麦、粟、大豆、小豆もまた、神さまからの授かりものと捉えていた。日本神話(古事記)には、食べ物の女神の亡き骸から五穀が生まれたと書かれている。発酵という現象も、産霊むすひ——新しい命を生み出す力の働きそのものだったのだ。

毎日の食卓から「気」をもらう

神さまの話ばかりしていて、ご先祖さまにへそを曲げられても困る。お供え物を捧げるのは何も神棚ばかりではない。

祖母の家には大きな仏壇があった。その上にはご先祖さまの遺影がずらっと並び、仏壇にはいつも何かしらお供え物があった。お盆やお彼岸には親類からの供え物も追加されて、酒や果物、ぼたもち、おはぎ、洋菓子、和菓子などが山と積まれていた。

僕は昔もいまもほんの少しだけ食い意地が張っているものだから、それを見るたび「食べていい?」と祖母に聞いた。祖母は毎回、笑ってこう言った。「ご先祖さまが先。そのあと食べてもええからな」

写真の中のご先祖さまがぞろぞろとやってきて、お供え物を皆で食べている姿を想像し、残ってるかなと不安になったことをうっすら覚えている。

仏壇のお供え物を「お下がり」として家族でいただくこの習慣も、日本古来の神人共食の思想が仏教行事の中に取り入れられたからだそうだ。先祖と食事をともにし、その加護とつながりを再確認するのである。もちろん子どもの僕は何も知らなかった。でも写真の中の人たちと同じものを食べているという感覚だけは確かにあった。

いただきます。そう言って、手を合わせるとき、僕らは何千年も続く小さな祈りの儀式を繰り返している。そうして神さまやご先祖さまの気を少しだけ分けていただく——。

そんな感覚を取り戻すことで、毎日の食卓との向き合い方が少し変わった気がする。

それから——。

娘が、僕を無視して食べ物に手を合わせるたび、こう祈る。

——ごちそうさまだけはせめて、パパの顔を見て言ってくれないだろうか。