神さまが食べてきたもの——日本の食卓と、神饌という考え方

神饌

娘が最近、「いただきます」というとき、僕のほうを見ません。

手を合わせて、テーブルにならんだ料理に向かっていうのです。

なんでパパにはいわないんだ、と聞いたら、口をとがらせてこう返されました。

むすめ
むすめ

だって「命をいただきます」ってことだから。パパじゃなくて、食べ物に向かっていわないといけないんだよ。

ぐうの音も出ませんでした。

ちなみに娘にそれを教えたのは僕。

ある日、巨大なレモンの被り物を頭にかぶって、黒いサングラスをかけているDJに取材しました。その人に教わったのです。「へえ、そうだったのか」と感心するのと同時に、内心「食べられる側のくせによく知ってるな」と思ったことを覚えています(笑)

でもその人のおかげで、僕の「いただきます」はその日から少し変わりました。

今回は、その「いただきます」の話から始めます。

日本人が何千年もかけて食卓に積みあげてきた、神さまと食べ物と人間の、深くて温かい関係についてのお話です。

「いただきます」は、頭に乗せる動作だった

「いただく(頂く)」という言葉の語源は、「頭(いただき)に乗せる」という動作にあります。

目上の人から大切なものを受けとるとき、あるいは神様へのお供え物を下げてからいただくとき、日本人はそれを頭の上に掲げました。ありがたくて、ありがたくて、頭の上まで持ちあげてしまう、そういう謙虚な姿勢が、いつしか食事の挨拶になったのです。

つまり「いただきます」とは、食べ物を「神さまからの授かりもの」として受けとる、小さな儀式なのです。

「ごちそうさま」はどうか。

「馳走(ちそう)」というのは、文字通り「走りまわること」です。山や川に食材を探しに行き、奔走して食事を整えてくれた人たちの努力に「御」と「様」をつけて感謝する。料理を作った人だけでなく、食材を育てた人、雨と太陽をもたらした自然の神々すべてへの感謝の言葉です。

毎日なにげなく口にするふたつの言葉に、こんな意味があったことを僕も大人になるまで知りませんでした。

神様の食事「神饌」とは何か

日本の伝統的な考え方に「神饌(しんせん)」というものがあります。神さまに捧げる食事のことです。

神棚に毎朝お供えする基本の三品は、米・塩・水です。これらは僕たち人間が生きていくうえで最低限必要なもの。神さまが毎日召しあがっているものは、僕らが毎日食べているものと同じなのです。

お祭りなどの特別な日には、さらに御神酒、魚、野菜、果物が加わります。そこにならぶのは、その土地でとれた旬のもの。季節ごとにいちばん滋養のある食べ物を神さまに捧げ、そのあと人間がいただきます。

この「神様と同じものを食べる」という行為を、昔から「神人共食(しんじんきょうしょく)」と呼び、お祭りのあとの共食を「直会(なおらい)」と呼んでいます。

神さまの食べ残しをもらう、というとちょっと語弊がありますが、本質はそういうことです。先に神さまに口にしていただき、神さまの「気」が移った食べ物を僕らが口にすることで、枯れかけた自分の気を取り戻すというわけです。

お神酒がぽかぽかした理由

数年前の元旦、赤ん坊のころお宮参りをしてもらった神社へ初詣に行きました。

そのとき、お神酒をふるまっていただいた。

はやま

東京の神社とはだいぶ雰囲気が違う、アットホームな境内でした。焚き火が二か所あって、地域の人たちが集まっていて。あのお神酒、ほんとにおいしかったなあ。

酒というのは特別な供物です。

昔の日本人は、酒を醸すたびに性質が変わる不思議な様子を目の当たりにして、そこに目に見えない神の力が働いていると信じました。温度も湿度も、発酵という言葉さえも知らなかった時代に、米と水と麹が変容していく過程は、まさしく神の仕事に見えたことでしょう。

そう考えると、お神酒が体を温めるのは当然ということになります。なにしろ神さまの「気」が宿った液体なのです(笑)

味噌も醤油も、神様の食べ物だった

神饌の話をしていると、発酵食品との深いつながりも見えてきます。

味噌・醤油・みりん・酒粕・甘酒——。このブログで何度も取りあげてきた発酵食品の原料は、大豆や米や麦。すべて「五穀」に含まれます。日本神話では、食物の女神の遺体から稲・麦・粟・大豆・小豆が生まれたとされていて、五穀はまさに神さまからの授かりものなのです。

発酵という現象そのものも、昔の日本人の感性で見ると、「産霊(むすひ)」——新しい命を生み出す力の働きそのものです。

目に見えない麹菌が、大豆や米を味噌や酒に変えていく。それを「神さまとの共同作業」と感じる醸造家がいまもいると聞いても、何の不思議もありません。

塩が神饌の基本三品に入っているのも、うなずける話です。

塩は和食文化をつらぬく縦糸のような存在です。それが神様へのお供えの基本となる。古来からの宗教観と和食の食材が、こんなふうにぴたりと重なり合っているのです。

おせちも雑煮も、神様へのお供えもの

ついでにお正月のおせちの話もしておきます。

おせちの語源は「御節供(おせちく)」——年神様へのお供え物です。

重箱に詰める、縁起物をならべる、お正月の三が日は火を使わない。それらすべてに、神さまを迎え、食を分かち合うという意味があります。「神人共食」の精神がもっとも強く残っているのは、お正月の食卓かもしれません。

わが家では毎年、僕が出汁をとって、お雑煮を手作りします。鶏肉と根菜、小松菜と絹さや、もちろんお餅も。きれいに盛りつけて、家族にふるまいます。お屠蘇は関西の地酒を用意しておいて、お雑煮を食べながら「いただきます」。

それこそが「神人共食」です。神さまと同じものを食べて、新しい年の気をいただく。大げさな儀式でも、難しい作法でもなく、ただていねい作って、家族といっしょにいただく、これがはるか昔から連綿と続いてきたのです。

食卓は、毎日の小さなお祭り

祖母の家では、仏壇の前にいつも何かお供えがしてありました。お盆やお彼岸には文字通りのてんこ盛りで、子ども心に「食べたい」と思っていたら、祖母にやさしく諭されました。

「まずはご先祖さまからやで。そのあと食べてええのよ」

米・塩・水・酒・魚・野菜・発酵食品——。日本人が神さまに捧げてきたものは、日本人が毎日食べてきたものと同じです。神さまの食卓と、僕らの食卓はずっと同じでした。

いただきます、と手を合わせるとき、僕らは何千年も続いてきた小さな儀式を繰り返しているのです。

娘が、僕を無視して食べ物に手を合わせるのを見るたび、こう思います。

あの子は正しい。あのレモンのDJも、まちがってはいなかったと(笑)