見えない柱を失った日——日本人の心に生まれた空白のこと

日本の原風景

新宿駅の雑踏を歩いていたとき、前を行く老人の靴につま先が軽く触れた。とっさに「すみません」と謝罪の声をかけた。老人は振り返り、僕の顔をじっと見て、低い声で言った。

「……殺すぞ」

一瞬、時間が止まったように感じた。胸の奥がひゅっと冷えた。言葉そのものより、その奥にある何かのほうが気になった。

最近、こういう場面を時々見かける。ちょっとしたことで激しく怒り、相手を威嚇する高齢者。子どもの頃、近所にはお年寄りがたくさんいた。無口な人も、不愛想な人もいた。けれども見ず知らずの相手にあんなふうに怒りをぶつける姿はほとんど見た記憶がない。かつての日本の老人像とはどこかがちがう。

あの人たちは何を失ってしまったのだろう。その問いが、ずっと胸のどこかに引っかかっていた。

見えない柱

昭和の初め頃まで、日本には多くの人の暮らしの中に「見えない柱」があった。

宗教の話ではない。もっと手前にある話だ。

自分より大きなものへの帰属意識とでもいうべきだろうか。山があり、川があり、土地の神さまがいた。先祖は死んでも遠くへは行かず、近くの山や森から子孫を見守っていた。

季節の移り変わりとともにある暮らしの中で、人々は「自分はこの大きな流れの一部だ」という感覚を抱いて生きていた。

信仰でもなく、空気や水のように暮らしのそこここに満ちていた感覚。自分はここにいていい、ここに属している、という確信。僕が「見えない柱」と呼ぶのはそういうものだ。それがあった時代、人はある種の落ち着きを持っていたのだと思う。

段階を経て失われた柱

その柱はある日突然倒れたわけではない。ふたつの段階を経て、徐々に失われていった。

第一段階は、明治から敗戦までだ。

近代国家への転身を急ぐ過程で、土地ごとに自由に息づいていた自然への信仰は、ひとつの型にまとめられていった。山にも川にも木にも神さまがいる——そんなやわらかい感覚が、国家をひとつにまとめるための物語に組み込まれ、少しずつ硬く、窮屈なものに変わっていく。

敗戦。それまで正しいとされてきた価値観が一気に崩れ、学校からも家庭からも、長く続いてきた物語が姿を消した。何が正しくて、何を信じていいのか。その答えを持たないまま、柱だけが倒れた。残ったのは、ぽっかりとした空白である。

第二段階は、高度成長期だ。

空白を抱えたまま、田んぼは工場に変わり、村は都市になり、土に触れる暮らしはコンクリートの上の生活へと変わった。

鎮守の森は開発され、神棚は古臭いものになり、手を合わせる習慣はマナーという記号に変わった。物質的には確かに豊かになった。けれど心の奥にあった柱はその頃、静かに姿を消していったのだと思う。

手近なもので空白を埋める

心に空白ができると、人はそれを何かで埋めようとする。

ある人は学歴で、ある人は肩書きで、ある人はお金で。これさえあれば大丈夫と信じて、ひたすら積み上げていく。けれど、どれだけ積み上げても心の奥の空洞はなぜか埋まらない。

知識で埋めようとする人もいる。本を読み、情報を集め、学び続ける。これは一見豊かに見える。でもその知識が誰かのためではなく、自分の不安をなだめるためだけに使われているなら同じことだ。

耳の痛い話でもある。年に三百冊以上の本を読み漁っていた頃の僕が、はたしてどちらだったのか。

なぜ空白が埋まらないのか。

本来その場所には「自分より大きなものとのつながり」しか入らないからだと僕は思う。お金も地位も名誉も他人の評価も、すべては自分の範囲内のものだ。心の奥の空洞は、自分の外側にある何かとつながった瞬間にしか埋まってはくれない。

新宿駅の老人の怒りは、目の前の僕に向けられたものではなかったのかもしれない。「お金さえあれば」「社会的な地位さえあれば」を支えに生きてきて、年齢を重ねたある日、ふっとその支えが手から離れる瞬間がやってくる。何かを失ったまま年だけ取ってしまった人の、どうしようもない孤独感——。責める気持ちは起きなかった。時代がそういう生き方を選ばせたのだ。そう思うと、怒りより先に胸が痛んだ。

柱はまだ取り戻せる

柱は完全に失われてしまったのだろうか。

完全に消えたわけではないはずだ。コンクリートの下に埋もれているだけで、土を少し掘ればまだそこにある。

八歳の僕に死んだらどうなるのかを時間をかけて話してくれた祖母。内容は覚えていなくても、聞き終えたときのほっとした感じはいまも僕の中に残っている。

あれは祖母の中にあった「見えない柱」だったのだと思う。柱は、言葉ではなく、ふるまいや気配、祈りのようなものとしてそばにいる人に手渡されていく。あの日がそうだったように。

そうして受け継がれてきたものが、何千年もこの国を支えてきたのだ。