テントウムシの恩返し——センス・オブ・ワンダーは自然が育む

虫取り中の女の子

夏になると思い出す。虫取り網をぶんぶん振りながら、畦道を駆け回っていた頃のことを。

捕まえたトンボの羽の模様に見入り、田んぼの泥の中からどろりとした生きものをすくいあげては仰天した。溜め池で魚を釣り、用水路でザリガニや雷魚を捕る。田んぼだらけの土地で育った僕にとって、毎日は発見の連続だった。自然は生きた教室だった。

ただ正直言って、あの頃は生きものの命にまったく無頓着だった。セミや蝶の羽を一枚ずつむしり取って、何枚までなら飛べるか調べたり、カタツムリの貝を割ってナメクジになるか確認したり。カエルでキャッチボールし、逃げ惑うアリをルーペで焼いたりもした。とても褒められたものではないが、少年というのは無邪気さの裏にそんな残酷さを併せ持つ生きものだ。

それが、ある時期を境にぴたりとやらなくなってしまった。小さな生きものにも心があると感じるようになったからだと思う。

小さな命にも心がある

たとえば夕立が来ると、わずか数ミリの小さな虫たちが飛ばされまいと葉っぱの裏に必死でしがみついている。自分の何倍も大きい獲物を抱えたアリが何度もつまずきながら巣へ向かう。トカゲが子どもを連れて歩いている。彼らも懸命に生きて、人間と同じような営みを持っている。そう感じることが繰り返しあったからだろう。

山間の寒村に暮らす祖父が、家の前の沢でホタルを数百匹捕まえて、うちの庭に放ってくれたことがあった。

夜になるといっせいに明滅し、庭木や花壇の上を舞った。僕は目を見張り、息を呑んだ。ところが翌朝になると一匹残らずひっくり返って硬くなっていた。「ホタルも子を残すために生まれてきたんやのに。かわいそうやな」祖父に遠慮しながら父が笑って言ったが、その目が笑っていなかったことをよく覚えている。

牙をむく自然から学んだ畏敬の念

もっとも、自然はいつも僕らの自由になるものでもない。時々、人に鋭い牙をむく。スズメバチに追い回され、ヘビに巻きつかれ、急流に流されて溺れかけたこともある。

幼なじみがカラスに石を投げたら、夕方そのカラスが仲間を引き連れて戻ってきて、鋭い声で鳴きながら、そいつの頭の上をぐるぐる旋回し始めたことがあった。あの光景はそのあと何度も夢に見た。

とにかくそういう日々は、僕の中に自然に対する愛着ばかりでなく、畏れや敬意も育てていったように思う。

センス・オブ・ワンダーを育てる

レイチェル・カーソンという人がいる。アメリカの海洋生物学者で、農薬による自然破壊を告発した著書『沈黙の春』は、環境問題を世界に知らしめた一冊として、半世紀以上経ったいまも読み継がれている。

彼女が晩年に書き残した小さな本を読んだとき、僕は自分の心の一角を占める名もなき感覚に名前がついた気がして深くうなずいていた。

その本は『センス・オブ・ワンダー』という。センス・オブ・ワンダーというのは、自然の不思議や神秘に気づいて驚く感性のことだ。わ、すごい。なんだろう、これ。きれいだな——こういう感性が心の中で大きく育つほど、その子の世界は豊かになっていく。

——知ることは感じることの半分も重要ではない。

カーソンは言った。子ども時代に育まれた感性は、大人になって困難や幻滅に直面したとき、一生消えない心の支えになってくれると。

センス・オブ・ワンダーを育てるには、驚きを分かち合える大人が一人そばにいればいいという。教えようとしなくていい。ただ子どもの隣で一緒に驚いていればいい。

セミの羽化とテントウムシの恩返し

だからというわけではないのだけれど、僕は娘をよく山や海に連れ出した。幸い、自宅の近くに大きな川が流れている。小さい頃はよく一緒に河川敷を散策したりもした。

夏の夜、地面から這い出してきたセミの幼虫を持ち帰り、網戸にとまらせて羽化を見守ったことがある。殻を割って出てきた体は若葉色だった。まだやわらかい羽に体液を送り込み、少しずつ伸ばしていく。娘は瞬きもせずに見ていた。

秋になって家の中に弱ったテントウムシが迷い込んできたこともある。小皿に蜂蜜を垂らして置いてやると、猛烈な勢いで食べ始めた。

「冬になったら死んじゃう?」娘が聞くので、「たぶん。最後の晩餐かも」と僕は答えた。僕らが少し目を離したすきにテントウムシはいなくなっていた。

やがて冬が来て春になり、居間の壁をあのテントウムシが歩いていた。見つけたのは娘だった。

「パパあ! テントウムシ生きてた!」

ひとしきり大騒ぎしたあと、春だし外のほうがいいだろうと河川敷に逃がしてやった。ところが秋になると、また家の中にいたのだ。それが数年続いた。

「何しにくるんだろ?」

あるとき娘が聞いてきた。

「蜂蜜をもらいにきたのかな。暖かい部屋で越冬するためかも。あ、お礼を言いにきたのか。いや、恩返しかもしれないぞ」

娘は真剣な顔でうなずいた。

「恩返し。それだよ。わたし毎年しあわせな気持ちになるもん」

冷静に考えれば、同じ個体である可能性は低いだろう。別の個体が洗濯物について入ってきただけかもしれない。でもテントウムシの恩返しを信じる心の余白こそ、カーソンの言うセンス・オブ・ワンダーそのものではないだろうか。

僕は僕で山を歩くと、自分よりはるかに大きなものの存在を身近に感じることがよくある。そんなときいつも不思議な安堵に包まれる。子どもの頃に田んぼが育ててくれたあの感覚は、姿を変えていまも僕の真ん中に居座っている。

この頃は虫取り網を手に野原を駆け回る子どもの姿をあまり見かけなくなった。もったいないな、と思う。網の中でトンボが羽をぶるぶる震わせる心地よい振動を僕の手はまだ覚えているというのに——。