なぜ「ごちそうさま」のあと、すぐスマホに手が伸びるのか——心の未消化という問題

スマホと食事

「ごちそうさまでした」

手を合わせ、お椀を置く。

昼間、歯医者で治療してもらった奥歯がまだなじんでおらず、少し食べづらかったけれど、おいしかった。お腹も十分に満たされた。

……そう思った次の瞬間には、僕の右手は無意識にズボンのポケットを探り、スマホの画面をタップしている。タイムラインをスクロールし、流れてくるニュースや、誰かのポストをとくに目的もなく眺め始める。

さっきまで口のなかに広がっていた出汁の余韻や、器の心地よい手触りは、ブルーライトの光のなかに一瞬で霧散していく。その一瞬の霧散が、なぜか胸の奥に小さな穴をあける。

この、器を下げるか下げないかの刹那にスマホを触ってしまう現代人の習性に、僕はふと、強烈な寂しさと違和感を覚えるのだ。

僕たちはなぜ、あんなに満たされたはずの食事の直後、すぐ別の「情報」を胃袋ならぬ脳袋(のうぶくろ)に流し込もうとするのだろう。まるで「心のデザート」を探しているみたいに。

理由は、心と脳の「未消化」にある。

心と脳は食後も咀嚼する

人間の口の咀嚼は、飲み込んでしまえば終わりだ。

しかし、心と脳の咀嚼は、実は「ごちそうさま」のあとも、まだ続いている。

「今日の煮魚、おいしかったな」という静かな多幸感。五感を開いて食事を受けとめたあとの、心地よい脳の疲れ。それらが体のなかにじんわりと浸透し、消化吸収されるまでには、少しの時間が必要なのだ。

それなのに、その余韻の隙間に、デジタルという強烈な刺激の塊をドバドバと流し込んでしまう。

スマホから溢れる情報が脳を興奮させ、せっかく食事がもたらしてくれた心地よいリラックス状態を、一瞬でかき消してしまうのだ。これでは、心のお腹が「デジタル消化不良」を起こすのも無理はない。

現代において、一番の贅沢。それは、ごちそうさまのあとに訪れる「静寂の5分間」をそのままにしておくことかもしれない。ただ椅子に座り、湯気が消えていくのを眺めるだけでいい。

情報の摂取を遮断し、脳を休めるその5分間があるだけで、ただの「栄養補給」だった食事が、僕たちの心を芯から整える「極上の癒やし」へと変わる。

日本茶で、脳と心をやさしく癒やす

スマホをテーブルに置いたまま、満たされたお腹の温かさをただ感じる。

テレビを観るのでもなく、次にやるべき仕事を考えるでもなく、食卓に残るお茶の湯気をぼんやりと見つめる。

ふと、昼間の歯科で、歯科衛生士の若い女性に、「歯ぎしりします?」と聞かれたことを思い出す。

「しますよ。歯ぎしりも歯嚙みも。毎日くやしいことばかりなもんで」と軽口で応じたら、しばらくのあいだ沈黙が垂れ込めた。

顔が少し赤らむのがわかったが、治療用ライトに照らされて逃げ場もなかった。あれ、居心地わるかったな……と小さな後悔が頭をもたげたときだった。

「パパ、スマホ見てないで、お茶淹れたから飲もうよ」

娘が新しく淹れてくれたほうじ茶の、香ばしい匂いがふわりと漂ってきた。

「お、ありがとう」

娘の声で、われに返る。僕はスマホに伸ばしかけた手を引っ込め、裏返して置いた。

いまはただ、この温かい湯気と、ほうじ茶の苦味だけを、心でじっくりと咀嚼するために。食卓に戻ってきた「静かな時間」をゆっくりと味わうために。