食べる前にもう味がする——和菓子の名、菓銘のこと

和菓子屋

ある夜、和菓子屋の店先で菓銘かめいの一覧を眺めていた。

店はもう閉まっている時間で、店内に人影はない。筆で書かれた和紙だけが、ガラス越しの明かりの中で静かに揺れていた。

夜船よふね、木守きもり、薄氷うすごおり、花びら餅、初霞はつがすみ、山路やまじ、都鳥みやこどり——。

食べたいものを探していたわけではない。ただ、名前だけを読んでいた。ところがこれが読み出すと止まらない。

木守、薄氷、花びら餅

「木守」というのは、柿の木にひとつだけ残す実のこと。来年もまた実りますようという願いを込めて、わざとひとつ残しておく習慣が昔からある。その孤独感と祈りをそのまま菓子の名前にしている。口に入れる前に、もうそこに冬の枝がある。

「薄氷」は、春先の朝、水たまりに張るあの薄い氷だ。踏めばパリッと割れる、一瞬の透明さ。それを食べ物に喩えた人がいる。富山には、この名を持つ銘菓も古くからある。

「花びら餅」は正月の菓子だ。白い餅がほんのり紅を透かす、うっとりするような姿をしている。ところが、かじると中から牛蒡ごぼうが出てくる。初めて食べたときは箸を持ったまま固まった。花びらの中になぜ根菜なのか。宮中の正月行事の名残らしい。

堅い押鮎おしあゆを噛んで長寿を願う歯固めの儀式が、長い年月のあいだに簡略化され、鮎がいつしか牛蒡に置き換わったのだという。優雅な見た目の奥に、千年前の宮中の正月が畳み込まれている。あの牛蒡は、鮎の末裔まつえいなのだ。

夜船、北窓、牡丹餅、御萩

それから「夜船」。ここには言葉遊びが仕込まれている。

夜船というのは、ぼたもちの夏の呼び名だ。ぼたもちは、餅のようには搗つき上げない。搗き上げないから、ぺったんぺったんという音がせず、隣の家は作ったことに気づかない。つまり「搗つき知らず」で、これが「着き知らず」に転じた。着き知らず——いつ岸に着いたのかわからないのは夜の船だということで、夏のぼたもちは「夜船」。

なるほど、うまいことを言うと感心していたら、まだ先があった。

冬の呼び名は「北窓」。北向きの窓からは月が見えない。「搗つき知らず」が今度は「月知らず」。同じ駄洒落を、季節を変えて使い回している。

ちなみに春は牡丹の季節だから「牡丹餅ぼたもち」、秋は萩の季節だから「御萩おはぎ」。つまり春夏秋冬それぞれに名前がある。時間の経過で呼び名の変わる食べ物は、ブリかぼたもちくらいのものだろう。

こういう飛躍を思いついた人は、きっと愉快な人だったのだろう。

それにしても、菓子に名をつけた人たちは、何を思っていたのだろうか。水たまりの薄氷を見た朝があり、枝の柿を見上げた秋の夕方があり、暗い川をゆく舟を眺めた夜があった。その景色を砂糖と餡に写し取った。名づけた人の名前は残っていない。

菓銘には、古今和歌集や源氏物語から言葉を借りたものも多い。茶席ではまず客が亭主に菓子の銘を聞いて、それからその菓子をいただく。名前が先、味はあと。順番からして、そういう作法なのだ。

モンブランとミルフィーユ

洋菓子と比べてみると、和菓子文化の妙がよくわかる。

たとえばシュークリームのシューはフランス語でキャベツ。形が似ているからだ。フィナンシェは「金融家」で、金塊の形をしているからだとか。

あちらは見た目どおりの名をつける。こちらは遠い季節や川面の夜を名前で呼んでくる。金塊と春の水たまり、どちらが豊かとは言わないが、どちらが遠くへ連れていってくれるかは明らかだ。

と、ここまで書いて、あちらにもモンブランやミルフィーユといった例外があることを思い出した。アルプスの雪山と千枚の葉。なかなか粋ではある。

菓銘を読むと腹が減る

それでも、菓銘の面白さに変わりはない。

口に入れる前にまず名前で味わう。次に目で色と形を味わう。それからようやく口に運ぶ。ひとつの菓子を三度楽しむ仕掛けになっている。

閉まった店の前で、僕は菓銘の一覧を読み終えた。

食べてもいないのに、いくつもの季節や風景を通り抜けて、何か遠くまで旅をしてきたような気分だ。そんな菓子がある国に生まれたことを、その夜は少しだけ誇らしく思った。

ひとつだけ困ったことがあった。読み終える頃には、どうしようもなく腹が減っていた。名前で一度、目で一度、口で一度。三度楽しめるのは確かだが、名前だけで済ませるには菓銘は出来が良すぎるのである。