大人になって、あのころに救われたと感じることが幾度となくあった。
小学生のころ、僕は毎日のように外を駆け回って、悪さやいたずらをしては怒られていた。いま思えば、その時間は僕のなかに、のちの人生を支えてくれる「余白」をつくってくれていた。
大人になって社会に出て、追い詰められるたび、僕はその余白に救われてきた。
ぼろ船と、沈没と、全校集会
小学校の低学年のころだったか。幼なじみ数人で日曜日、家の近くを流れる大きな川に出かけた。背丈ほどあるカヤのなかをかき分けていくと、岸辺に一艘の朽ちかけたおんぼろ舟があった。
乗ろう、と誰かがいいだした。もちろん反対するやつなんかいない。
中州まで行こう、と誰かがいった。みな賛成だ。船底には水が溜まっていたが、そんなことはおかまいなしに、長い竹竿を使って川のなかほどにある中州へ漕ぎだした。
流れに掉さして、ゆっくり前進する。ところが中州まであと少し、というところで、船底からぶくぶくと水があふれだしてきた。狭い船のなかはパニックだった。それでも僕らはなんとか最初にいた場所へと戻り、ことなきを得た。
ズボンまで、びしょ濡れだった。
その一部始終を土手の上から見ていた人物がいた。
僕らの学校の先生だった。
明けて月曜の朝、全校集会が開かれた。僕らはみんなの前に立たされて、校長からこってりと絞られた。穴があったら入りたいとはまさにあのことだ。でも帰り道、僕らは笑いながら家路についていた。なんだかちょっと誇らしい気分だった。子どもとは、そういう生き物だ。
時限爆弾と、コンクリートで塗りつぶされた隙間
実家の隣には中学校がある。僕の母校だ。広い敷地のなかにいくつか木立があって、小さいころからよく忍び込んではセミを捕まえていた。
武道場があった。コンクリートブロックでできた基礎の側面には、子どもがくぐり抜けられるくらいの隙間がいくつかあった。僕らはたまにその隙間から床下に潜り込み、空き缶にぎっしり詰めた爆竹の時限爆弾を仕掛けていた。
点火して、一目散に逃げる。木々の陰に隠れて待つ。
パンパンパパパパパン!
あの音は、いま思い出しても胸がざわつく。
爆竹が連続して爆ぜる大きな音が響きわたる。床下の閉鎖した空間でその音は何度も何度も反響し、屋外の数倍もの爆音となって武道場の床を震わせる。武道場で柔道や剣道の稽古をしていた中学生たちは、飛びあがって驚いていた。
僕らはそれを見て、腹を抱えて笑った。
何度目かで、僕らの仕業だとバレた。
また全校集会である。また校長先生だ。今度は親まで職員室に呼び出され、大目玉を食らった。
しばらくして中学校に行くと、武道場の床下に入れる隙間が、すべて塗りつぶされていた。僕らのために、わざわざ工事をしてくれたのだ。なんだか申し訳ないような、でもやっぱり誇らしいような、複雑な気分になったことを覚えている。
錦鯉が全部、真鯉になった日
中学校の中庭には池があった。池には、橙色や白、まだら模様の鯉がたくさん、のんびりと泳いでいた。
ある日、川で真鯉を釣った。真っ黒で、立派な鯉だった。
いっしょにいた幼なじみのおじいちゃんに調理してもらおうという話になり、意気揚々と持ち帰ったのもつかの間、おじいちゃんに断られてしまった。僕らは相談して、中学校の池に放流することにした。我ながらいいアイデアとそのときは思っていた。
中学に入学したのはそれから数年後のこと。新入生として初めて中庭の池を覗き込んで、僕は目を丸くした。
池の鯉が一匹残らず真っ黒になっていたのだ。
以前いたはずの橙色や白やまだらの美しい錦鯉の姿がひとつもない。真鯉の繁殖力の強さに驚嘆する羽目になった。なお僕が最初に放流した真鯉は、あれから二回りは大きくなっていた。いちばんいい場所に、池の主のような顔をしてじっと横たわっていた。
じいちゃんちと、もっと深い自然
僕の実家があるのは郊外のベッドタウンである。自然は豊かだったが、いわゆる田舎ではない。
祖父の家は山間僻地にあった。祖父が運転する車の助手席に座り、郊外から山道を抜けて、どんどんと深山へ分け入っていく。空の高い場所をとんびが飛びまわり、ピーヒョロと鳴く声が聞こえたら、祖父の家が近づいているサインだった。
そこに広がるのは、野生動物もたくさん暮らす、実家とのまるで別の世界。家の前を清冽な川が流れており、祖父の家について僕がまず行くのは決まってその川だった。
川じゃこ(カワムツ)が群れをなして泳いでいるのが見える。釣りに川遊び、石集め——。釣った魚は、祖母が甘辛い煮つけにしてくれた。祖母の手料理は質素だったが、どれも丁寧で真心のこもったものだった。
日が暮れるとあたり一面まっ暗闇になった。星がよく見えた。月明りがあれほど明るいことを知ったのも、祖父の家だ。その家は、教科書には載っていない、さまざまなことを教えてくれたが、その話は以前の記事「トトロと宮崎駿とおじいちゃんの話」に書いたので、ここではこのくらいにしておく。
余白、ということ
大人になってから、何度か精神的に追い詰められたことがある。
最初は、新卒で入った商社でのこと。僕は会社でも指折りの偏屈上司のもとに配属された。新設されたばかり課で、課員はその上司と僕の二人きりだった。四六時中、その上司からパワハラを受けた。周りの先輩や上司が見かねて「異動願いを出せ」というくらいだった。
真夏のある日、通勤電車のなかで突然、息ができなくなった。ドアにもたれかかるようにしてしゃがみこむと、汗が滝のように流れ落ちてきた。もう限界だと思った。ふとドアの窓から空を見あげたら、とんびが飛んでいた。祖父の家を思い出した。
ひんやりとした暗い土間、居ならぶはく製たち、縁側のそばの湧き水の水槽、冷えたスイカ、山と川、太陽と雲、月と星空——。息を深く吸いこみ、長い時間をかけてゆっくりと吐いた。気分が楽になった。「もうちょっとだけがんばろう」、そう思った。あの瞬間、子ども時代の自分が、そっと背中を押してくれた気がした。
その後もいろいろあった。だが僕は一心不乱に働きつづけた。
一年後、その上司が認めてくれるようになっていた。いつも仏頂面。人づきあいを拒み、自慢話と悪口しか口にしなかった人が、そのころ少しずつ変わってきていた。社内の飲み会にも積極的に参加するようになっていた。
隣の部署の上長に「よくやった。お前が変えたんだ」といわれた。そうは思わない。ただ僕の心があの日の電車のなかで折れてしまわなかったのは、子ども時代の記憶が詰めこまれた場所のおかげだと思う。その場所は大人になったいま、心の「余白」として機能している。その後もいろんなかたちで、僕を支えてくれている。
はやま
だから娘が生まれてから、できる範囲で山や海に連れ出してきた。夏休みは多い年で10回以上、海へ行った。僕自身が泳ぎたかったということもあるが、娘のなかに何かが残ってくれていたらいいとも思う。
まとめ、というより
わたしの個人的な話を最後まで読んでくださってありがとうございます。
まとめを書くような記事でもないので、ひとつだけ。
子どもが外で遊んで泥だらけになって帰ってきたとき、叱らないでやってください。「何があったの?」と笑って聞いてあげてください。そこにはたぶん、その子の小さな冒険が詰まっているから。
大人になったとき、その子の心をそっと支える「余白」になるから——。
はやま
- 虫取り網が教えてくれること。センス・オブ・ワンダーと、子どもと過ごす夏の話
- 娘といっしょに遊ぶのは、わたしが楽しいからだ
- 子どもに何を渡すか。——宮崎駿が1998年に語ったこと、そしてわが家の後悔
- 「すまん、許せ」——ローマ皇帝も毎晩くじけていた。完璧な親なんていない
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