二百万年分の、おつかれさま——今夜の料理がちょっぴり面倒に感じる方へ

夜、台所に立って、フライパンに油を引き、ガスの火をつける。玉ねぎを適当に切って放り込む。じゅう、という音がして、甘い匂いが立ちのぼる。包丁のカタンという音。換気扇のうなり。冷蔵庫を開け閉めする鈍い振動。夜の台所からは、どの家でも似たような音がする。

ふだんはその音を聞くと、ほっとする。

でも、疲れ果てていて、台所に立っているだけでしんどい——そんな夜もある。

そういう日に、鍋をかき混ぜながら考えていたことがある。

地球上で料理をするのは人間だけ

道具を使う動物は、意外とたくさんいる。チンパンジーは枝でシロアリを釣る。ラッコは石で貝を割る。カラスはクルミを落として車に割らせる。でも、火を使って食材を調理する生き物は、この地球にたった一種類しかいない。

ホモ・サピエンス——僕たちだ。

頭がいいからとか、文明社会に暮らしているからとか、そういう話ではない。もっと根の深い話だ。

腸の長さが半分に

ハーバード大学の人類学者リチャード・ランガムは、著書『火の賜物』のなかで、こんな仮説を立てた。料理こそが、人間を人間たらしめている——。

初めて聞いたときは突拍子もないと感じた。だが、彼の話を一つひとつたどっていくと、腑に落ちる。

食べ物を加熱すると、なにが起きるか。たんぱく質は変性し、でんぷんは糊化し、硬い繊維はほどけて、消化しやすい状態になる。料理とは、体の外でおこなう消化なのだと彼は言う。本来なら胃腸が時間とエネルギーをかけて行なうはずのプロセスを、火が先にすませてくれる。

その結果、僕たちの体になにが起きたか。腸が短くなった。

チンパンジーの腸は、ヒトのおよそ倍の長さがあるという。生の食材を消化するには、それだけの長さがいるのだろう。だが火の通ったやわらかいものなら、そんなに長い腸はいらない。こうして消化に使っていたエネルギーが余り、そのぶんが脳にまわった。

人間の脳は、大食らいだ。体重のわずか二パーセントしかないのに、体が使うエネルギーの約二十パーセントを奪っていく。この贅沢な臓器を養うには、生の食物を一日じゅう噛み続けていたのでは、とうてい間に合わない。チンパンジーは一日の五、六時間を咀嚼に費やすというから、もし人間がいまも生食のままだったら、朝から晩まで噛み続けて、それでも足りなかったはずだ。

火が食べ物を変え、腸が縮み、脳が大きくなった。

このパラダイムシフトが起きたのは、およそ二百万年前1。ホモ・エレクトゥスと呼ばれる原人の時代である。彼らの化石を調べると、それ以前の人類に比べて歯が小さくなり、顎が細くなり、肋骨の下部が狭まっている。肋骨の下部が狭いということは、そのぶん腸の容積が小さいということだ。料理をしていた痕跡が、骨格にくっきりと刻まれていたわけだ。

二百万年前のエレクトゥスが、どういういきさつで料理を始めたのかは知らない。雷に打たれて焼けた獣の肉を口にして、香ばしくてうまいと思ったのかもしれない。山火事のあとの草地で焼けた芋を掘り出して、やわらかい、歯にやさしい、と気づいたのかもしれない。ただひとつ確かなのは、一度火を覚えた彼らが、もう二度と生食には戻らなかったということだ。

僕らはもう戻れない

そう、戻れないのだ。これはちょっとぞっとする話でもある。

僕たちの体は、すでに料理されたものを食べることを前提に作られている。徹底した生食主義を実践する人たちを調べた研究では、慢性的な低体重に陥ったり、女性では月経周期に影響が出たりするケースが報告されている。ほかの生き物は、生のものを食べて平気で生きている。ところが人間は、どうやらもうそちらには戻れない。

「料理は文化だ」と言うとき、僕たちの心のどこかには、しなくてもいいけれどしている、という気分がある。趣味とか、嗜みとか、ちょっと上等ななにか。でも、本当はそうではなかった。しなければ、うまく生きられない体だった。料理は文化である以前に、生きるために欠かせない行為だったのだ。

火を囲み、顔を合わせる

火は、もうひとつ別のものも生んだ。

火を囲むとき、人は自然と顔を向かい合わせる。二百万年前のエレクトゥスたちも、きっとそうだった。夕暮れどきに誰かが火を熾し、焼いた肉や芋を分け合い、火が消えるまでそこにいた。これが「家族」という概念を生んだのではないか、と言われている。

食べ物を分け合うだけなら、チンパンジーもする。だがあれは、強い個体が弱い個体に配給して上下関係を確認する儀式だ。人間のそれは、まるでちがう。ただ一緒に食べる。火を囲んで過ごすこの時間が協力と信頼を育て、やがて言語をも育てていったと人類学者たちは言う。日が暮れて、手仕事ができなくなる。炎の揺れる明かりのなかで顔を見合わせながら、なにかを話す必要が生まれたのだ。

台所は、家族の起源。ひょっとすると、社会そのものの起源だったのかもしれない。毎晩、世界じゅうの台所で、誰かが誰かのために料理をしている。火を通した温かいものが真ん中にあるだけで、そこは二百万年前と変わらない安全地帯になる。

今夜も台所に火がともる

とはいえ、だ。

昼間のハードワークがたたって、料理がおっくうでたまらない夜だってある。どこでもドアの隣にでも、ボタンひとつで料理が出てくる魔法の道具が転がっていればいいのに——などと思いながら、冷凍食品に手を伸ばす日もある。それはそれでいい。無理をして、料理を憎んでしまうより、ずっといい。

ただ、頭の片隅に置いておいてもいいかもしれない。台所で火を使い、炒めたり煮たりする。そのありふれた行為の向こうに、二百万年という途方もない時間が横たわっていることを。それは僕たちにとって、いちばん古くて、いちばん大切な仕事なのだ。

うちの娘は、よく噛んで食べる。

妻の倍は時間をかけて、一口一口、ていねいに噛んでいる。小さい頃から、噛むことの大切さを伝えてきたつもりだ。もっとも、言葉で言い聞かせた効果かどうかは怪しい。となりで僕自身が、いつもよく噛んで食べていたからだろう。

自分の子ども時代を振り返ってもそうだが、大人が口先でなにを言っても、子どもには響かない。けれど、その大人が身につけて実践していることは、不思議と自然に伝わっていくものだ。娘がよく噛むのは、たぶんそれだ。ちなみに同じ食卓にいるのに、妻にはまったく響いていない。これはこれで、家族の面白いところである。

娘がいま一所懸命に噛んでいる野菜も肉も、火の魔法でやわらかくなり、彼女の血となり肉となって、あの大きな脳を養っている。そして僕がいま台所でしているのは、二百万年前から続くバトンを、次の走者にそっと手渡すことなのだ。

……なんて、ちょっとかっこいいことを考えていても、結局は「おいしい!」という娘の一言に、全部持っていかれてしまうのだけれど。

[^1]: 火の使用が始まった時期には議論がある。確実な痕跡として残っているのは百万年ほど前のものだが、ここでは人類の体の変化から逆算したランガムの仮説に沿って、およそ二百万年前とした。