ある夕方、洗面台の前に立って、ふと思う。
「あれ、この人、誰だろう」
鏡の中にいる顔は、自分のはずなのに、どこかよそよそしい。目の下のくすみ、少し下がった頬のライン、笑ったときにくっきり刻まれるようになったシワ——。
二十代の自分が見たら、なんと言うだろうか。
「歳をとるのは当たり前」、誰でもそう頭ではわかっています。でも、わかっていることと、受け入れられることは、また別の話です。
とくに若いころ、容姿を褒められることが多かった人ほど、この痛みは深くなります。「きれいだね」と言われることが自分の一部になっていたぶん、それが少しずつ遠ざかっていく感覚は、単なる加齢以上のものを突きつけてきます。
今日は、この痛みを三人の哲学者と芸術家にぶつけてみました。プラトン、ボーヴォワール、そして世阿弥。三者三様の答えが返ってきましたので、どれかひとつ、今夜の枕元に持ち帰ってください。
プラトンに相談してみたら
まず登場するのは、古代ギリシャの哲学者プラトン。ソクラテスの弟子であり、アリストテレスの師。西洋哲学の源流とも言える人物です。二千四百年前の人ですが、美について語らせたら、今でも誰より鋭い。
「鏡を見るたびに、昔と違う自分に落ち込みます」と相談すると、プラトンはこう言うでしょう。
「あなたが惜しんでいるのは、美そのものではありません。美の影を惜しんでいるのです」
プラトンの哲学の中心にあるのは「イデア論」です。わたしたちが目で見ているものはすべて「影」であり、本当の実体(イデア)は別の次元に存在する、という考え方です。
これを容姿に当てはめると、こうなります。若いころの張りのある肌、つやのある髪——。それらは「美のイデア」が肉体という素材に一時的に宿ったものに過ぎない。肉体は時間とともに変化します。つまり「美が失われた」のではなく、「影が薄れた」だけのことだと。
プラトンはさらにこう続けるでしょう。
「肉体の美に執着することは、旅人が途中の宿屋に居座ろうとするようなものです。宿は宿でしかない。本当の目的地は、もっと先にある」
肉体が衰えていくのは、魂がより高い次元の美へと重心を移すための、自然な準備なのだと——。プラトンはそう話してくれるでしょう。
はやま
ボーヴォワールに相談してみたら
次に登場するのは、20世紀フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワール。生涯を通じて「女性とは何か」を問い続け、フェミニズムの礎を築いた人物です。哲学者サルトルと生涯のパートナーでありながら、結婚はしませんでした。自分の生き方を、最後まで自分で決めた人です。
「若い頃は周りにちやほやされていたのに、今は誰も見てくれない。それが悔しい」と打ち明けると、ボーヴォワールは深くうなずいてこう言うでしょう。
「その悔しさは、よくわかります。でも少し聞いてください」
彼女が晩年に書いた大著『老い』のなかで、ボーヴォワールはこう問いかけています。若いころに「ちやほやされていた」のは、あなた自身が愛されていたのか。それとも、社会が「若くて美しい女性」という記号に反応していただけなのか。
厳しい問いかけです。でも彼女は、意地悪を言いたいわけではない。
「記号」として消費されることと、「あなた」として存在することは、まったく別だということです。若さという記号の賞味期限が切れたとき、初めて「記号ではない自分」として生きる自由が始まる——。ボーヴォワールはそう言いたいのです。
「ちやほやされなくなった」のは、終わりではありません。あなたが「記号」から「人間」になるチャンスなのかもしれない。
はやま
世阿弥に相談してみたら
三人目は、室町時代の能楽師・世阿弥。観阿弥の息子として生まれ、能を芸術の域にまで高めた人物です。足利義満に寵愛された少年期から、晩年に佐渡に流されるまで、波乱に満ちた生涯を送りました。その中で書き続けた芸術論『風姿花伝』は、今も色あせない言葉に満ちています。
「若い頃の自分には、もう戻れない。それがどうしても受け入れられない」と訴えると、世阿弥は静かにこう言うでしょう。
「それは、花を惜しんでいるのですね。しかし、あなたが惜しんでいるのは『時分の花』です」
世阿弥は「花」を二つに分けて考えました。ひとつは「時分の花」——若さゆえに自然と輝く美しさです。咲くべき季節に咲く花は、誰でも美しい。しかしそれは時節が与えてくれたものであって、自分が磨いたものではない。
もうひとつは「まことの花」——長い修練と経験の末に、内側から滲み出てくる美しさです。こちらは簡単には散らない。歳を重ねるほどに、深く静かに輝きます。
世阿弥が言いたいのは、「時分の花」が散ることを嘆くのではなく、「まことの花」を咲かせることに全力を注げ、ということです。
鏡に映るシワや衰えは、あなたが人生を懸命に生きてきた年輪です。その年輪の分だけ、あなたにしか咲かせられない花の種が、内側に育っているはずです。
はやま
葉山の食の処方箋——ウェルエイジングのための三品
「鏡を見るのが怖い」と感じるとき、心も体も内側からしぼんでいるような感覚があると思います。そんな夜は、抗うのではなく、健やかに時を重ねるための食を。アンチエイジングではなく、ウェルエイジング——。「老いと戦う」のではなく、「老いと共に豊かになる」ことを考えましょう。
玄米と海藻で、内側からの潤いを
玄米でしっかり土台を作り、ひじきや昆布などの海藻類でミネラルを補給します。血液を穏やかに整え、表情に落ち着いたツヤが戻ってきます。
根菜で、血を養い巡らせる
レンコンやにんじんを炒めるだけでいい。地の中に根を張る野菜の力が、宙に浮いてしまった気持ちを静かに引き戻してくれます。レンコンは「節」を食べることで、人生の節目を支えるエネルギーをくれる——。そんなふうに思いながら食べるのも悪くないですよ。
そして梅しょう番茶——魂の美容液
はい、またこれ(笑)。
でも今回は、少し違う文脈でお伝えします。梅しょう番茶のクエン酸は細胞の酸化を穏やかに抑え、醤油と番茶が体温を上げて、内側から血色を運んでくれます。
この一杯を飲むとき、あなたは「かつての自分」ではなく、「今の、温かい自分」とつながることができます。
今夜は、丁寧に淹れた一杯を、鏡の前の自分に捧げるつもりで飲んでみてください。温かい液体が喉を通り、胃に落ちていく。指先までじわっと温もりが広がる感覚。そのとき「見た目」という表面的な次元を超えて、「生きているという確かな実感」をあじわえるはず。
「時分の花」は散っても、あなたの内側には、あなたにしか咲かせられない「まことの花」の種があります。台所は、その種に水をやる場所なのです。
はやま
- 「完璧なお母さん」でいなきゃ、と思っているあなたへ——哲学者三人に相談してみたら
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- 体の中から火が灯る——梅しょう番茶という、古くて新しいセルフケア
※このブログの情報は、医療機関の監修を受けておらず、病気の診断、治療、予防を目的とするものではありません。記事内でご紹介している効果効能についても栄養素や成分に関するものであり、商品やサービスに関するものではないことにご注意ください。体調不良が長く続く場合は、医療機関で相談することも大切です。食卓でできること、専門家の力を借りること、その両方が、あなたの体を支えます。

