義両親・実親の干渉がしんどい——哲学者三人に相談してみたら

ため息をつく女性

「子どもの食事、そんなんでいいの?」

「もう少し早く寝かせたほうがいいんじゃない?」

「昔はこうしてたけど」

——帰りの車の中で、ため息をついたことはありませんか。

ケンカしたいわけじゃない。縁を切りたいわけでもない。ただ、もう少しだけ、そっとしておいてほしい。そのひとことが、なぜこんなに言えないのだろう。

義両親や実親からの干渉は、夫婦ゲンカともママ友との摩擦とも異なる苦しさがあります。相手は「悪意」ではなく「愛情」で言ってくる。だからこそ、怒ることにも罪悪感がともなう。この「愛情という名の重さ」は、なかなか誰にもわかってもらえません。

そこで今回は、三人の思想家にこの悩みをぶつけてみました。アルフレッド・アドラー、マルティン・ブーバー、ヘンリー・クラウド。三者三様の答えが返ってきましたので、どれかひとつ今夜の帰り道に持ち帰ってください。

アドラーの答え:「あなたが解決すべき問題ではありません」

まず登場するのは、オーストリア出身の心理学者、アルフレッド・アドラー。フロイトと同時代を生き、一度はその弟子となりながら決別し、独自の「個人心理学」を打ち立てた人物です。晩年はアメリカで講演活動を続け、67歳で旅先のアバディーンの路上で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。忙しすぎる最期まで、実践の人でした。

彼はこう言うでしょう。

「義親や親御さんが何を言うかは、彼らの課題です。あなたがそれを受け取るかどうかは、あなたの課題です

アドラー心理学の核にある概念が、「課題の分離」です。すべての悩みは「これは誰の課題か」という問いで整理できる、と彼は言います。子どもをどう育てるかはあなたの課題。義親が口を出したくなるかどうかは、義親の課題。この二つを混同するから、苦しくなる。

「でも、無視できないんです」——。そう思った方に、アドラーはこう続けるかもしれません。「無視しなくていい。ただ、引き受けなくていい」と。

相手の言葉を「聞く」ことと、それを「自分の問題として抱える」ことは別の問題です。「そうですね」と穏やかに返しながら、心の中では静かに「これは私が解決すべき問題ではない」と置いておく。これがアドラーの言う、課題の分離の実践です。

はやま

「また言われた」と思った瞬間に、心の中でひとこと言ってみてください。「これは、私の課題ではない」と。声に出さなくていい。その一言が、ゆっくりと自分を守る壁になっていきます。

ブーバーの答え:「あなたは『もの』ではありません」

次に登場するのは、20世紀オーストリア生まれのユダヤ人哲学者、マルティン・ブーバー。「対話の哲学者」とも呼ばれ、人間と人間の関係のあり方を生涯かけて探求した人物です。主著『我と汝』は哲学書というより詩に近く、難解なようで、読むと不思議と胸の奥に届いてくる一冊です。

ブーバーはこう答えるでしょう。

「干渉とは、あなたを『汝(thou)』ではなく、『それ(it)』として扱うことです

ブーバーは、人間の関係を二つに分けました。「我と汝(I-Thou)」の関係と、「我とそれ(I-It)」の関係です。

「我と汝」は、相手をかけがえのない一人の人格として向き合う関係。「我とそれ」は、相手を操作したり、自分の目的のための手段として扱う関係です。

義親や実親の干渉は、多くの場合「我とそれ」の構造を持っています。悪意があるわけではない。ただ、「この子(あなた)はこうあるべきだ」という像を先に作り、あなたをそこに当てはめようとしている。つまり、あなたという「汝」ではなく、自分の期待という「それ」に向かって話しかけているのです。

だからこそ、干渉を受けると「私のやり方を否定されている」という感覚が生まれる。あなたの感じていた虚しさには、ちゃんと名前があったのです。

ブーバーが教えてくれるのは、こうです。相手が「我とそれ」の関係で来たとき、あなたまで同じ土俵に乗る必要はない。あなたは、自分自身を「汝」として扱い続けることができる、と。

はやま

「あの人はいま、私という人間ではなく、自分の描いた『像』に話しかけている」——そんなふうに思えると、少し傷の深さが変わります。あなたが否定されたのではなく、あなたとは別の誰かを否定していたのかもしれません。

クラウドの答え:「境界線は、愛の否定ではありません」

三人目は、アメリカの心理学者ヘンリー・クラウド。臨床心理士であり、著書『境界線(バウンダリーズ)』は世界で400万部を超えるベストセラーになりました。日本ではアドラーやフロムほど知名度は高くありませんが、「人間関係の境界線」という概念を実践的に整理した功績は、現代の心理学の中で非常に大きいものがあります。

三人の中で、いちばん具体的なことを言ってくれます。

「境界線とは、相手を拒絶するものではありません。自分が何に責任を持ち、何に責任を持たないかを明確にするものです」

クラウドは言います。健全な境界線のない人間関係では、誰もが不幸になる。境界線がないと、与えすぎる人は消耗し、受け取りすぎる人は成長しない。

「でも、親に境界線を引くなんて、冷たい人間みたいで」——その罪悪感こそが、境界線を引けない最大の原因だと彼は言います。しかしクラウドはこう続けます。境界線は壁ではなく、庭のフェンスのようなものだ、と。フェンスには鍵のかかる扉がある。あなたが開けたいときに開け、閉めたいときに閉める。それは相手への憎しみではなく、関係を長続きさせるための知恵です。

義親や実親に「NO」と言うことは、関係を壊すことではありません。むしろ、境界線のない関係は、やがて双方を消耗させます。「私はここまでは受け入れられます。でもここからは、私たちのやり方でやらせてください」——その一言を言えること、あるいは言えなくても心の中でそう思えること。それがクラウドの言う「境界線」の第一歩です。

はやま

「NO」は拒絶の言葉ではありません。境界線を引くことで自分たちを守り、相手との関係を健全に維持しようとする受容の言葉です。フェンスの扉は、あなたが開けたいときに開ける——。それでいいのです。

最後に葉山から:三人の話を聞いたあと、台所へどうぞ

アドラー、ブーバー、クラウド——三者三様の答えが出そろいました。どれかひとつ、「そういう見方もあるか」と思えるものがあったなら、それで十分です。

さて、哲学の話はここで一区切りにして、台所の話をさせてください。

心が侵食されている感覚があるとき、私がおすすめしたいのはごま塩です。

ごまのカルシウムと自然塩のナトリウムが、文字通り細胞を引き締めてくれます。東洋医学的に言えば、外からの余計なものを受け取りすぎた体を、内側からキュッと締め直す力がある。不安感をやわらげ、気持ちを落ち着かせる「食べるお守り」と呼んでいいものです。

ごま塩をパラパラと振りかけるその瞬間は、誰にも邪魔されない、あなた自身の聖域をつくる小さな儀式です。凝った料理でなくていい。白いご飯の上にごま塩をかけて、よく噛んで食べる。噛むほどに、他人から押しつけられたものではない「自分の軸」が、体の奥に少しずつ戻ってくるはずです。

外からくる言葉は、止められないこともある。でも、自分の体に何を入れるかは、あなたが決められます。「私の体は、私が選んだものでできている」——そういう感覚を取り戻すことが、干渉からあなたを守る、静かで強い防御になります。

はやま

今夜、ごま塩をご飯にかけてみてください。それだけでいい。アドラーの「課題の分離」、ブーバーの「我と汝」、クラウドの「境界線」を、温かいご飯を噛みながら少し思い出してみてください。