スパイスを飲んでいない

砂漠

家族が寝静まると、僕は決まって台所に立つ。

廊下の電気が落ち、寝室の戸が閉まる音がして、しばらくしてからグラスを取り出す。ウォッカに氷を落とし、レモンを少し、炭酸をそっと注ぐ。誰も起きやしないのに音を立てないようにしてしまうのが、この時間のならわしだ。塩辛を容器ごと目の前に置いて、その夜は配信で新作のデューン(『DUNE/デューン 砂の惑星』)を観はじめた。

映像は美しい。スケールも申し分ない。技術だけでいえば、旧作の比ではない。それなのにすぐに飽きてしまった。タブレットから視線を逸らし、氷が溶けていくのを眺めながら、なぜだろうとしばらく考えていた。

リンチ版デューンという、いわくつきの傑作

デューンの原作は、フランク・ハーバートが一九六五年に発表したSF小説だ。宇宙を舞台にした壮大な叙事詩で、長らく映画化は不可能と言われていた。それをデヴィッド・リンチが一九八四年に映像化する。

ところがリンチ自身は、この仕事を気に入らなかった。編集を自由にやらせてもらえなかったためで、のちにテレビ放映用へ再編集された長尺版では、抗議のしるしに監督名を「アラン・スミシー」という偽名に変えている。映画史に残る、もっとも有名な怒りの変名のひとつだ。

それでも蓋を開ければ、どこを切ってもリンチ印の金太郎飴だ。砂漠の惑星に蠢く巨大な砂虫、幻覚めいた映像、人の精神そのものを象徴するような登場人物たちがひしめいていた。不完全な傑作、とでも呼ぶしかない代物だ。

初めて観たとき、これはただのSFではないと直感した。スクリーンの向こうにもっと深いところがある——。うまく言葉にはできないが、そういう感覚だった。

デューンとスター・ウォーズ

デューンが後世に落とした影は、はかりしれない。

砂の惑星タトゥイーン、選ばれし者が覚醒していく物語、さらにフォースのマインド・トリック。声と手ぶりひとつで相手の心を操るあの力は、デューンで人を従わせる「ヴォイス」によく似ている。ジョージ・ルーカスはデューンから多くの着想を得たのだろう。

両者の関係を僕はこう捉えている。ロックの歴史に日なたのビートルズと日陰のドアーズがいるように、スター・ウォーズはSF映画のビートルズで、デューンはドアーズだ。どちらが上という話ではない。ビートルズなしにドアーズが語れないのと同じで——あくまで僕の感じ方だが——デューンなしにスター・ウォーズも語れない。

旧三部作には、何かがあった

スター・ウォーズは全作観ている。でも世代的に、やはり印象深いのは旧三部作だ。『新たなる希望』から『ジェダイの帰還』まで、あの三本には何かがあった。

いま観るとCGもなく、VFXも稚拙。技術はいまと比べものにならない。それでも観終わったあと、胸の奥に残るものがあった。フォースという概念が、ただの超能力の設定ではなく、人間の精神の深層を指し示しているように感じた。善と悪の二項対立に見せかけて、その実、ダース・ベイダーの内側にある葛藤——父と息子、闇と光が同じ根から生えているという話が、骨格にあった。

あれもまた、ルーカスがデューンから受け継いだものだったのだろう。

ドアーズとハクスリーの扉

ドアーズというバンド名は、オルダス・ハクスリーの著書『知覚の扉』から来ている。ハクスリーはその本で、メスカリン(幻覚剤)を服用した体験を綴った。知覚の扉が開き、世界の見え方が根底から変わる体験を。

デューンにも、霊薬スパイスを飲み干して覚醒する場面がある。リンチ版でカイル・マクラクランが演じたその瞬間と、ハクスリーの扉が重なるのは、たぶん偶然ではない。

スター・ウォーズのフォースも、突きつめれば同じところにつながっている。意識の奥底に眠る何かが目覚めるという物語は、神話の時代から繰り返されてきた、人類共通の夢だ。ユングなら集合的無意識と呼ぶのだろう。

棚に目がいった。デューンの惑星では命がけで奪い合うスパイスが、僕の台所には無造作に転がっている。クミン、胡椒、ナツメグ、クローブ、コリアンダー……。塩辛をひとつまみ、ウォッカソーダを口にふくんだところで、新作に飽きた理由がようやくわかった気がした。映像は進化したけれど、スパイスを飲んでいない。扉が開いていない。きれいな砂漠の絵として完成しているけれど、その向こうに深みがない。

ハリウッドが失ったもの

ハリウッドの全盛期を知っている身には、最近の大作映画がどこか寂しく見えることがある。技術は上がった。予算も上がった。スケールも上がった。でも、スクリーンの向こうに「扉」を感じることが少なくなった。

もちろん例外はある。けれども全体として、安全な方向へ、確実に回収できる方向へ、映画が向かっているように見える。リスクを取らなくなった、と言い換えてもいい。

リンチが怒りながら作ったデューンや、低予算で荒削りだった旧スター・ウォーズには、何かを賭けている感じがした。作り手の切実さが、フィルムに焼きついていた。それがいまは薄い。

思えば、感じることと考えることは、どうやら同時にはできないものらしい。ハクスリーの「知覚の扉」を開けようとしているか、いないか。乱暴に言えば、それが黄金期の映画といまの映画の違いだ。クミンの小瓶を棚に戻す。命がけで奪い合うようなものは、この台所には何ひとつない。

タブレットの画面を消した。砂漠が一瞬で闇に沈み、台所には換気扇の低い音だけが残った。