この20〜30年で、働き方はずいぶん変わった。家族のあり方も、夫婦の関係も、「お父さん像」も。気づけば価値観ごと入れ替わっているような感覚がある。
何がどう変わったのか。そしてそもそも、わたしたちは何を目指してきたのか。
そんなことを、少し変わった角度から考えてみたい。80〜90年代の広告コピーを眺めながらだ。
広告は、時代が「いちばん聞いてほしかったこと」を短い言葉に詰め込んだもの。だから古いコピーを並べると、その時代の欲望や不安が、意外なほど正直に浮かびあがる。かつて自分が好きだったコピーをまとめたメモをあらためて読みなおしてみると、ちょっとおもしろいことが見えてきた。
はやま
リクルートの10年——個人解放宣言
100本のコピーを眺めると、あることに気づく。もっとも多く登場する企業は「リクルート」だ。
「サラリーマンという仕事はありません。」(1988年、セゾングループ)
「出世するより、成功するほうが、偉い。」(1992年、リクルート)
「ああ、自分がモッタイナイ。」(1985年、リクルート)
「楽しい仕事は、ラクじゃない。」(1985年、リクルート)
「働いているだけでは、プロになれない。」(1987年、リクルート)
これだけのコピーを、8年間で打ち続けた。しかも全部、「組織」ではなく「個人」に語りかけている。
バブル景気(1986〜1991年)の入口にさしかかる日本では、高度成長期に確立した「会社人間」のモデルが揺らぎはじめていた。「会社のために働く」から「自分のために生きる」への、静かな転換期。リクルートはその空気を正確に読んで、「転職も自己実現も、恥ずかしくない」というメッセージを打ち続けた。
「サラリーマンという仕事はありません」という一行に、当時どれほどの人が胸を突かれただろう。それまで「サラリーマンです」と名刺を出すように自己紹介していた人たちに、「あなたには固有の仕事がある」と告げたのだから。
はやま
「父親」が揺れていた——理想が広告になるとき
もう一つ気になるのは、「父親」をテーマにしたコピーの多さだ。
「息子よ、人生は舗装された道だけではない。」(1980年、トヨタ)
「働いているお父さんより、遊んでいるお父さんのほうが、好きですか。」(1985年、サントリー)
「いつも、仕事の日や、家族の日ばかりだから、父の日ぐらい、パパの日にしてあげたい。」(1988年、岩田屋)
「遊んでいるお父さんのほうが好きですか」というコピーが、1985年に広告として成立していた。
このコピーのおもしろさは、問いかけの構造にあった。「遊んでいるお父さん」が「好きかどうか」を問うということは、裏に「お父さんは働いているのが当然で、遊んでいるのは少し後ろめたいことだ」という前提がある。その前提をひっくり返すのが、広告の仕掛けである。
ここに、ひとつの原則が見える。理想だから広告になる。すでに当たり前のことは、広告のコピーにはならない。
「家族と遊ぶ父親」が1985年に広告になったということは、それがまだ「理想」であって「現実」ではなかったということだ。父親の帰りが深夜になるのが当たり前だった時代に、コピーライターは「でも本当にそれでいいの?」と静かに問いかけた。
はやま
1991年という転換点——「豊かさの先」が見えない
バブルが崩壊した1991年前後、コピーの空気がわずかに変わる。
「ゆたかになったら、その後、どうしますか。」(1991年、日本興業銀行)
「なんにもしないをするの。」(1991年、西武百貨店)
「おとなから幸せになろう。」(1992年、ブライトンホテル)
「豊かになったら、その後」
この問いが「銀行の広告コピー」として出てくるのが、時代の空気なのだと思う。高度成長期に「豊かになること」を目標に走り続けた日本が、ようやくゴールテープを切った瞬間に気づいた——。その先に何があるのか、考えていなかったと。
「なんにもしないをするの」も同じ匂いがする。消費一辺倒だった時代が終わりに近づく気配を、西武百貨店は感じていた。「買うこと」ではなく「何もしないこと」を豊かさとして提案する広告が成立した1991年は、日本の精神史においてひとつの転換点といえる。
はやま
家族という「帰れない場所」
100本の中で、個人的にもっとも好きなコピーがある。
「『忙しいなら無理して帰らなくていいよ。』は、ほとんどの場合、嘘です。」
(1996年、JR東日本)
このコピーが出た1996年は、バブル崩壊後の「失われた時代」のど真ん中だ。長時間労働が常態化し、家族がすれ違い続けていた時代。「無理しなくていい」という言葉が実は嘘だと、広告が静かに看破する。
家族テーマのコピーには、胸に刺さるものが多い。
「僕が母のことを考えている時間よりも、母が僕のことを考えている時間の方がきっと長いと思う。」(1992年、NTT)
「家を出ることに最後まで反対した父が、いちばんに電話をくれた。ジワッと、元気が出た。」(1995年、第二電電)
この2本がいずれも「電話会社」の広告だという事実が、何かを語る。話したいのに話せない。会いたいのに会えない。そんな家族を、電話でつなごうとしていた時代。「おかえり」と声をかけ合う場所が、遠くなっていた。
はやま
「おかえり」というコピー
この30年で、状況はがらっと変わった。「サラリーマンという仕事はありません」はいまや当たり前になり、「遊んでいるお父さん」は珍しくもなんともない。家族との連絡はスマホひとつでこと足りる。
それでも「ゆたかになったら、その後、どうしますか」という問いに、日本社会はまだ答えを出せていないような気がする。
あのコピーたちはこれからどこに着地するのだろうか。豊かさでも、出世でも、自己実現でもなく、「ただいま」と「いただきます」がいえる食卓だったのかもしれない。
はやま
なぜなのかそのときは自分でもよくわかりませんでしたが、今回いま100のコピーを読みなおして、少しわかった気がします。あの時代の日本人がずっと求めていたもの、広告の言葉の奥に透けて見えるものが「おかえり」というそのひと言に収れんするような気がするから。
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