当日の朝は二時に起きた。
積年の願いが叶い、いよいよ娘との初テント泊である。父のテンションは最高潮だ。ドワーンと娘の枕元で銅鑼を打ち鳴らしたい気分だったが、残念ながらうちに銅鑼はない。シンバルならあったはずと探したが見当たらない。
「起きろ、出発だぞ!」大声で言ったら、妻が飛び起きた。
娘も興奮している様子だった。車の中でもふだんのようにうとうとしたりせず、現地に着くまでずっとしゃべりっぱなしだった。
この記事に書いていること
木曽駒ヶ岳ってどんな山?
木曽駒ヶ岳は、日本百名山のひとつに数えられる中央アルプス最高峰だ。標高2956メートルの本岳のほか、中岳、宝剣岳などを含む山域全体を指す。

この山の最大の特徴は、ロープウェイで一気に標高2600メートルまで上がれること。日本最大の高低差950メートルを誇るロープウェイで終点に降り立つと、そこには「千畳敷カール」が広がっている。
カールとは、約2万年前の氷河期に氷が山肌を削り取ってできたお椀型の地形のことである。千畳敷カールは日本を代表するカールのひとつ。夏の初めには色とりどりの高山植物が斜面を埋め尽くし、多くの観光客が訪れる。
標高2500メートルあたりが森林限界で、そこから上は高い木が育たない。ハイマツ(腰ほどの高さしかない松の仲間)が地を這うように広がり、その先には岩場と空だけが続く。これまで娘が登ってきた高尾山や筑波山の緑豊かな山道とは、まるで別世界だ。




1日目:晴天のカールを越え、テント場へ
長野県まで車で移動し、バスに乗り継いでロープウェイの「しらび平」駅へ。ロープウェイに乗ると、眼下の緑がみるみる遠ざかり、七分ほどで千畳敷カールの駅に到着した。



まず登山ポストに計画書を投函。それからホテル千畳敷のカフェでコーヒーとジュースを頼み、一時間かけて高度に体を慣らした。急に標高が上がると、頭痛や息切れが起きやすくなるからだ。

神社で山の神さまに旅の安全をお願いし、いよいよ出発だ。


カールの急斜面は、下から見るよりずっと手強かった。寒いくらいの気温なのに、登り始めるとすぐ汗が噴き出してきた。行動食をつまみながら、登り切るのにおよそ二時間かかった。
登り切った先の乗越浄土で後ろを振り返った。ロープウェイの駅がはるか下に小さく見える。その向こうに南アルプスの稜線、街は遠く霞んでいる。


昼休憩を取ってから、中岳(2925メートル)へ向かった。宝剣山荘、天狗荘と山荘を通り過ぎ、岩だらけの稜線を進む。大人たちにどんどん抜かされながらも、娘は黙々と歩き続けた。



中岳の頂上に着いた頃には、二人ともへとへとだった。てっぺんの岩によじ登ろうとしたら、娘に「疲れてて危ないからやめて」と止められた。保護者はどちらなのか。

中岳の反対側を下ると、今夜泊まるテント場が見えてくる。急な岩場を急がず、慌てず、ゆっくりと下る。浮き石(踏むとぐらぐらする石)が多く、油断すると足を取られる。



テント場に着いたのは午後の早い時間。22張りのテントが先に並んでいた。僕がテントを張るあいだ、娘は「暇だから」と読書を始めた。その光景がなんだか山っぽくて、とても良かった。



夕方、荷物を置いて山頂(本岳)へ。ゆるやかな道が続き、カールの登りよりらくちん。しかし山頂に着くと、天気が急に崩れてガスが立ち込めてきた。眺望はゼロ。残念だったが、「また来ればいい」と言い聞かせ、テント場へ戻る。



帰宅後、娘と写真を選んでコンビニに印刷しに行きました。出てきた写真を見て、手が止まりました。山頂で撮った一枚だけ、娘の顔が白く塗りつぶしたようになっていたのです。
妖怪ののっぺらぼうみたいな感じ。元の画像を確認すると、顔目も鼻も口もしっかり写っていました。印刷機の不具合だったのかもしれません。
ただ、この山ではかつて学校登山の一行が遭難し、多くの命が失われたことがあると、あとで知りました。登頂したくても、できなかった子どもたちがいた。彼らが娘の体を借りて山頂で記念撮影をしたのだろうか。顔のない娘の写真を見ながら、そんなことを思いました。説明のつかないことを説明しようとは思いません。ただ、心の中で静かに手を合わせました。
テントに戻って夕食の準備を始めたところで、夕立が降り出した。
ラーメンとジンギスカンをテントの入口で慎重に調理する。毎度のことながら山の飯はうまい。今夜は早食いの妻にせかされることもない。咀嚼魔の僕らは麺と肉をじっくり味わった。

食べ終わると外が真っ暗だった。都会とちがって、足元も見えない漆黒の闇だ。五十メートル先のトイレに行くのにもヘッドランプの明かりだけが頼りである。トイレから戻ると娘は寝息を立てていた。
夜中、強風が吹き荒れた。ビュウビュウという音で何度も目が覚めた。僕は一晩中テントの心配をしていた。翌朝それを打ち明けると、ぐっすり眠っていた娘は「知らなかった」とあっさり言った。


2日目:イワヒバリの道案内
夜が明けると、あたり一面が真っ白だった。深い霧が立ち込め、大粒の雨がテントをばらばらと打つ。昨日の青空がうそのようだ。

雨が吹き込み、テントの床に水たまりを作る。僕も娘もちょっとナーバスな気分になって、フリーズドライのご飯と味噌汁をぼそぼそ食べていたら、初めて見るクモが二匹テントに入ってきた。その一匹が、娘の足にぴたりとくっついた。
「と、とって! 早くとって!」娘は虫が大の苦手である。
「昔から朝グモは神さまの使いだっていうし、怖がらなくて大丈夫だよ。縁起がいいんだ」
「ほ、ほんと?」娘はテントの外にさっと目を走らせて言った。「じゃあ、雨やみますように。ちゃんと帰れますように」
僕は二匹のクモをそっとつかんで外に逃がしてやった。

雨具を着用し、風にあおられるテントをなんとか折り畳んでザックに詰め込み、さあ下山しようかというときだった。
娘が泣き出した。
霧はますます分厚くなり、視界を遮っている。テント場にはもう誰もいない。雨と風はいよいよ強くなってきた。
「下りたくない」娘はそう言ったきり、動かなくなってしまった。
仕方なく、二人でテント場の山小屋に駆け込んだ。「今夜泊まれますか」僕が聞くと、スタッフの女性が「泊まれますよ。でも明日以降の天気もどうなるかわからないから、今日下りたほうがいいですね」と言う。娘は首を縦に振らない。
すると彼女は娘の前にしゃがみ込み、穏やかな声でいろいろ話しかけてくれた。最後に「お姉さんが一緒に行ってあげるから。この山のことなら何でも知ってるんだよ」と言うと、娘はようやくこくりとうなずいた。
僕は焦るあまり、娘に少し厳しくしてしまっていた。彼女のやわらかく自信に満ちた声が、娘だけでなく僕の心も解きほぐしてくれた。宝剣山荘が見えるあたりまで一緒に歩きながら、彼女は途切れることなく娘に話しかけてくれた。
「ここまで来たら、もう大丈夫」彼女はそう言って、宝剣山荘へ向かう下り坂の手前で手を振って戻っていった。
ところが二人きりになったとたん、娘はまた固まってしまった。実は僕もだ。なにしろ前日にはっきり見えていた道が、霧の中ではまったく見えない。数メートル先が白い壁なのだ。
「こわいよ」娘はつぶやいて、その場に座り込んだ。
「大丈夫」と僕は繰り返しながら、かちこちに固まった娘を抱きかかえるようにして一歩ずつ下っていった。
牛乳みたいな霧の中に突然、宝剣山荘の壁が現われたときは心底びっくりした。それくらい何も見えていなかったのだ。中に入るとストーブが燃えていて、登山客が何人かいた。「この先どうですか」と聞かれたので、「絶対やめたほうがいいです」と力説しておいた。

トイレを借りて温かい飲み物を飲んで、最後の難関へ。千畳敷カールの急斜面である。昨日登ってきたあの急坂を、今度は霧と雨の中で下るのだ。
すると娘がまた怖がり始めた。天気のせいもあるだろうけれど、それ以上に急な下り坂に怯えていた。またもやしゃがみ込んでしまった。今度はもう立ち上がれない。地面にお尻をつけたまま、ずるずると少しずつ移動する。どんどん時間が過ぎていく。このままでは下りるのに何時間かかることか。
そのとき、一羽の小鳥が現われた。イワヒバリという、高山に棲む鳥だった。僕たちの足元をちょんちょんと歩き、少し先で止まって振り返るようにして待つ。また歩く。また止まる。
その様子があまりにも道案内のように見えて、娘と顔を見合わせた。娘の手を引いて立ち上がらせ、イワヒバリの後ろをついて歩いた。霧の中、小さな背中を追いかけるように進んでいくと、ロープウェイの駅がぬっと浮かび上がってきた。

ロープウェイに乗り込んだ瞬間、二人同時に大きなため息が漏れた。雨具を着てはいたが、中までぐっしょりだった。体の芯まで冷えきっていた。麓の温泉に浸かると、熱が肌を通して内側へじわじわ染み込んでいくのがわかった。僕は放心状態で目をつむり身を任せていた。

湯上がりに娘がにこにこしながら言った。
「お風呂で考えてたの。あの小鳥さん、神さまのお使いだね。わたしたちのことをクモさんが報告してくれて、そしたら神さまが小鳥さんを送ってくれたんだよ」


帰宅後
後日、娘と一緒に山小屋の女性に礼状を書いて送った。あのとき助けてもらわなければ、この旅がどうなっていたかわからない。
天気予報では二日とも晴れだった。山の天気は変わりやすいと頭では知っていたが、あれほど極端な天候の変化は初めてだった。
それでも怪我もせず無事に帰ってこられたのは、旅支度を怠らなかったおかげだろうと思う。山は準備したぶんだけ応えてくれる。そうして時々はこちらが想像もしていなかったものを返してくれる。
あの日の帰り道、娘は言った。
「次は、アルプスの他の山にも登ってみたい」
返事をしようとルームミラーを見ると、もう眠っていた。
——また行こうね。次は晴れた朝に、山頂で日の出を見よう。
- 子どもと山の上で一泊——木曽駒ヶ岳テント泊登山【準備編】
- 猿に囲まれ、クマと見間違え、日が暮れた——陣馬山親子登山の記録
- トトロはほんとうにいる——宮崎駿と、わたしのおじいちゃんの話
- 「神隠し」はなぜ消えたのか——信じることをやめた日本人の話
- 脳みそには使い方がある。マインドマップで子どもの思考力を育てる話
- お星さまいっぱい——キャンプが自己肯定感を育むか本気で検証してみた
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