娘はめったにおかわりをしない。
もともと食が細いほうではないが、ご飯は一膳で足りるように育ってしまった。だから我が家の食卓において、おかわりとは年に数回の珍事である。彗星の接近くらいの頻度だと思っていただきたい。
その夜は、豚の角煮だった。圧力鍋を使って、ほろっほろのとろっとろに煮込んだやつだ。
食卓は平和だった。箸の音。妻と娘のとりとめのない会話。僕は味噌汁をすすりながら、次に登る山のことなどを考えていた。
そのとき、娘がすっと茶碗を差し出したのだ。
「ごはん、もうちょっと」
静止した。僕の中の時間だけが。
断っておくが、表面上の僕は動じていない。「はいよ」と受け取り、立ち上がって炊飯器へ向かう。その所作は、我ながら実に淡々としたものだった。
でも内側は大変なことになっていた。
来た。来たぞ。おかわりが来た。角煮か。角煮が勝ったのか。いや待て、米の可能性もある。今日の米の炊き加減が良かったのか。水を心もち減らしたのが功を奏したのか。いやいや、角煮の甘辛い煮汁が米を呼んだと見るべきだろう。煮汁と米。あの蜜月の関係。よし。よし。よーし。
場内は総立ちだ。
外野席では小さい僕たちがウェーブを起こし、誰かが胴上げの準備を始めている。
実況アナが叫ぶ。「おかわりです! おかわりが出ましたあ!」
解説の僕が冷静に語る。「いやあ、煮汁の煮詰め加減が実に良かったですねえ」
その間、現実の僕は炊飯器の前でしゃもじを手にしている。
ここで大事なのは、盛りすぎないことだ。うれしさのあまり大盛りにすると、娘は残す。残された飯ほど、心を折るものはない。「もうちょっと」は「もうちょっと」なのだ。軽くふんわり七分目。浮かれた男にこの繊細な仕事ができるだろうか。できるのだ。父とはそういう生き物だ。
「はいよ」
差し出す手も声もあくまで平静を装う。娘は「ん」と受け取り、何事もなかったように角煮をつつく。実際、彼女にとっては何事でもないのだ。ただ、ごはんが少し足りなかっただけ。
でも僕は知っている。おかわりとは、言葉より正直であることを。
「おいしい」は、気を遣って言える。褒め言葉は、練習すれば口から出る。でも茶碗はうそをつかない。空いた茶碗がもう一度差し出されるとき、そこには社交も忖度もない。体がもうちょっと食べたいと言っている。作った人間にとって、これ以上の賛辞があるだろうか。
星ひとつより、茶碗ひとつ——。
その夜、僕は食器を洗いながら一人でにやにやしていた。妻に「何を笑ってるの」と聞かれて、「別に」と答えた。
場内ではまだ、拍手が鳴りやまなかった。
- ごはんを炊く、ということ——1300年続く、いちばん静かな祈り
- 深夜二時のパジャマグルメ——三つ星の料理がなぜ残飯に敗北するのか
- 食育の授業は、湯気がやっていた
- あなたは正直なひとですね——六歳の娘と、風呂場の夜
- 「なんとなく嫌な予感がする」の正体——胃腸のつぶやきと、無意識からのサイン
- ぬか床が、そっと励ましてくれた夜
※このブログの情報は、医療機関の監修を受けておらず、病気の診断、治療、予防を目的とするものではありません。記事内でご紹介している効果効能についても栄養素や成分に関するものであり、商品やサービスに関するものではないことにご注意ください。体調不良が長く続く場合は、医療機関で相談することも大切です。食卓でできること、専門家の力を借りること、その両方が、あなたの体を支えます。

