茶柱がこの国から絶滅しかけている——立つと縁起がいい、の由来

茶柱

ある朝、湯呑みの中に茶柱が立った。

まっすぐに凛という感じで立っていた。僕は思わず「おっ」と声を上げた。向かいで弁当に詰めた残りの卵焼きをつついていた娘が、何事かと覗き込む。

「茶柱。立つと縁起がいいんだぞ」

「何それ。初めて聞いた」

衝撃であった。娘は茶柱を知らずに育っていた。考えてみれば無理もない。彼女が飲むお茶はペットボトルか、ティーバッグの煮出しだ。あの中で柱が立つことは物理的に永遠にない。

茶柱というのは、思いのほか贅沢な偶然なのだ。まず茎の混じったお茶でなければならない。急須の網が細かすぎてもだめだ。茎が湯呑みまで泳ぎ着き、なおかつ水分の含み方が絶妙で、片方だけが沈む。そういう条件をいくつもくぐり抜けて、ようやく一本立つ。

でも現代では、その条件のすべてが消えつつある。ペットボトル、ティーバッグ、目の細かい急須。茶柱は誰に気づかれることもなく、静かに絶滅へ向かっている。トキやコウノトリは保護されるのに、茶柱を保護する者はいない。

ではなぜ、茶柱は縁起が良いということになったのか。調べると面白い説に行きあたる。

江戸の頃、駿河の茶商人が、茎の混じった安いお茶を売りさばくため、「茶柱が立つと縁起がいい」という売り文句を広めたというのだ。これが本当なら、欠点を吉兆に変えた日本史上もっとも成功したコピーではないか。書き手としての嫉妬を禁じ得ない。

茶柱が立ったことを人に言うと運が逃げる、という言い伝えもあるらしい。

「あ。パパ、いま言っちゃったね」娘が言った。

「……黙って飲み込めば大丈夫という説もある」僕は茶柱ごとお茶を飲み干した。ジンクスとは、都合のいい説を採用する自由のことでもある。

娘がスマホをしばらくいじって、うれしそうな顔をした。

「人に話したら、その人に幸運が移るんだって。わたしのとこに来たね。ふふ」

「お、そうか。それならいい」

それにしても、と思う。

柱、という字がいいではないか。

家を支えるのは柱だ。柱が立つのはめでたい。神さまも一柱、二柱と数える。してみると茶柱とは、湯呑みの中に立ったいちばん小さな一柱なのかもしれない。

僕らのご先祖は、お茶の屑にさえ吉兆を見た。湯呑みの底の小さな偶然をわざわざ幸運に変換した。

宝くじも当たらず、株も持たない庶民の暮らしにおいて、幸運の単価を限りなく下げる技術——。しあわせはどこにでもある。朝の湯呑みの中にさえ。

翌朝、娘がペットボトルのお茶を逆さにして、じいっと眺めていた。

「立たないね」

「立たないんだよ、それは」

彼女の湯呑みにいつか一柱、立つ日が来るといい。