娘がはじめて嘘をついた日のことを、わたしはいまでも覚えている。
「お菓子、食べた?」と聞くと、口のまわりにチョコレートをつけたまま、娘は首を横にふった。4歳になったばかりのころだった。
腹が立った。いや、正確には腹が立つと同時に、すこし寂しかった。あんなに素直だった娘が、わたしに嘘をついた。その事実が、なにか大切なものを失ったような気持ちにさせた。
親というのは勝手なもので、子どもが嘘をつくと、自分のことを棚にあげて「嘘をつくな」と教え込もうとする。嘘がどれだけ悪いことか、嘘つきになったらどうなるか、道徳的な説教を始める。わたしもそうだった。
でも、少し冷静になって考えてみると、嘘をつけるようになったということは、娘が大きな成長を遂げたということでもある。
嘘がつけるということは、心が育ったということ
発達心理学では、子どもが嘘をつけるようになるのは3歳から4歳ごろだとされている。この時期、子どもは「心の理論」を獲得する。他者にも自分とは違う心があり、他者は自分とは異なる信念や欲求を持っているということを理解しはじめるのだ。
嘘をつくためには、こう考える必要がある。「お母さんは、わたしが勝手にお菓子を食べると怒る。でも、わたしがお菓子を食べたことは知らない。もしわたしが『食べてない』と言えば、お母さんはそれを信じるかもしれない」
この思考プロセスには、高度な認知能力が必要だ。自分の視点と他者の視点を区別し、他者の心的状態を推測し、それに基づいて自分の発言をコントロールする。嘘は、想像力と他者理解の結晶なのである。
そう考えると、チョコレートまみれの顔で「食べてない」という娘は、愚かなのではなく、むしろ賢くなりはじめていたのだ。
人間は嘘をつく動物である
進化心理学者たちは、嘘を人間の社会性の副産物だと考えている。霊長類の知性は、物理世界を理解するためではなく、複雑な社会関係を操作するために発達したという「マキャベリ的知性仮説」というものがある。
群れのなかで生き延びるためには、ときに他者をあざむき、ときに協力し、ときに同盟を結び、ときに裏切る。そうした社会的な駆け引きのなかで、わたしたちの祖先は知性を磨いてきた。嘘は、その知性の一部なのだ。
17世紀の哲学者スピノザは、人間を「情念の奴隷」として描いた。わたしたちは恐怖や欲望、怒りといった感情に突き動かされて生きている。嘘も、その情念から生まれる。自分を守りたい、よく見せたい、罰を避けたい——そうした欲求が、嘘を生む。
嘘をつくのは人間の本性なのである。
親だって嘘をついてきた
ここで、わたしたち親は自分自身を振り返るべきだろう。
考えてみれば、わたしたちだって嘘を積み重ねて生きてきた。本心とは違うことをいって場を取りつくろったこと、自分をよく見せるために話を盛ったこと、気まずい状況から逃れるために嘘をついたこと——数え切れないほどあるはずだ。
「サンタクロースはいるよ」と子どもにいうのも、ある意味では嘘だ。でもわたしたちは、それが子どもに夢を与えると信じて、平気で嘘をつく。
そんなわたしたちが、子どもの嘘に腹を立てる。
わたしが嘘をやめようとした話
実は、わたしには苦い経験がある。
昔から、わたしは人の嘘を見抜くのが妙に得意だった。なんとなく、わかってしまう。この人はいま、嘘をついている。見栄を張っている。話を盛っている。
それが、次第にうんざりしてきた。
でもあるとき気づいた。わたしが他人の嘘にここまで敏感なのは、たぶん自分のなかにも同じものがあるからだ。自分をよく見せたい欲望、認められたい欲求、恥ずかしいことを隠したい気持ち——わたし自身が持っている、そして忌み嫌っている部分。だからこそ、他人のなかにそれを見つけると、嫌悪するのだ。
そう思ったわたしは、ある日、決心した。「もう嘘はやめよう」と。
相手のことを思っての嘘は別だけれど、自分をよく見せる嘘や、保身のための嘘はもうつかない。清く正しく生きるのだ、と。(まあ、いま思えば随分と青臭い決意だったのだけれど)
ところが。
嘘をつかないように努力すればするほど、わたしは他人の嘘に対してますます怒りを覚えるようになってしまった。「わたしは嘘をつかないで正しく生きているのに、この人はそのわたしに向かって平気な顔で嘘をならべ立てている」——そんな憤りが湧いてくるのだ。
これはおかしい、と思った。
嘘をやめて清く正しくなったはずなのに、わたしの心はどんどん狭く、息苦しくなっていく。他人に対する寛容さが失われていく。
ある時、思った。「嘘ついてもいいじゃないか」と。
悪質な嘘、人を傷つけるための嘘でなければ、多少の嘘はついたってかまわない。自分を守りたいときもあるし、格好つけたいときもある。そういう弱さも含めて、人間なのだから。
嘘をつく自分を、すこし許せるようになった。
すると不思議なことに、他人の嘘も、以前よりずっと大目に見られるようになった。「ああ、この人もいま、ちょっと格好つけたいんだな」「自分を守りたいんだな」——そう思えるようになったのだ。
たぶんわたしは、根が生真面目だったのだろう。あるいは、幼少期に「嘘をついてはいけない」という刷り込みが強くあったのかもしれない。だから、自分の嘘を許せなかった。
でも、自分を許せたら、他人も許せるようになった。
心理学では、これを「投影」と呼ぶそうだ。自分のなかで受け入れられない部分を、他者のなかに見て嫌悪する。逆にいえば、自分を受け入れられるようになれば、他者も受け入れられるようになるということだ。
嘘にも種類がある
中世の神学者トマス・アクィナスは、嘘を3種類に分けた。「冗談の嘘」「善意の嘘」「悪意の嘘」。
自分の利益のために他人を騙す嘘、人を傷つけるための嘘——これらはたしかに悪だろう。子どもがこうした嘘をつきはじめたら、親として厳しくいさめなければならない。
でも、自分を守るための嘘、相手を気遣うための嘘は、どうだろう?
「お母さんのつくった料理、本当はあまり好きじゃないけど、傷つけたくないから『おいしい』という」という嘘。「失敗して恥ずかしいから、本当のことはいいたくない」という嘘。
これらを一概に悪だと断じることができるだろうか。
18世紀の哲学者カントは、どんな状況でも嘘をついてはいけないと主張した。たとえ殺人者に追われている友人の居場所を聞かれても、真実をいわなければならないと。それほどまでに、カントにとって嘘は絶対悪だった。
でも、わたしたちの多くは、カントほど厳格ではない。状況によっては、嘘も許されると感じている。それは、わたしたちが人間の弱さを知っているからだ。
嘘をつかなくなるということ
スピノザは著書『エチカ』のなかで、人間の成長を段階として描いた。最初、わたしたちは情念に支配されている。恐怖、欲望、怒り——そうした感情のままに生きている。
でも、理性が育つにつれて、わたしたちは情念から自由になっていく。自分の感情を理解し、コントロールできるようになる。そして最終的には、理性による自由の境地に達する。
嘘をつかなくなるというのは、この高い段階への跳躍なのだとわたしは思う。
嘘をつかなくなるのは、「嘘は悪だから」という道徳的な理由からではない。嘘をつく必要がなくなるからだ。
自分を守るために嘘をつく必要がないほど、自分を受け入れられるようになる。他者の評価を気にして嘘をつく必要がないほど、自分の価値を知るようになる。人を操る必要がないほど、誠実な関係を築けるようになる。
そこにいたるまでには、たくさんの経験が必要だ。たくさんの嘘をつき、それが発覚して恥ずかしい思いをし、嘘で人を傷つけてしまい後悔し、嘘に嘘を重ねて自分を見失い——そうした痛みのなかから、なにかを汲みとる。
嘘をつかなくなるということは、人生の深い知恵なのだ。
娘の嘘と、わたしの嘘
チョコレートまみれの顔で「食べてない」といった娘は、いまではもっと巧妙な嘘をつくようになった。
最近、クラス替えがあった。それからというもの、帰ってくる娘の表情がどこか曇っている。 玄関で「ただいま」という声が、ほんのすこし沈んでいる。わたしが「学校どう?」と聞くと、娘は一瞬だけ目をそらし、 すぐにいつもの調子で笑ってみせる。「問題ないよ。ストレスはいろいろあるけどね」
その笑顔が、どこか無理をしているように見えた。 言葉よりも、沈んだ肩のほうが本当の気持ちを語っている。心配をかけまいとしているのだろう。 小さなころから集団になじむのが苦手な子だった。 その子がいま、自分の弱さを隠して、わたしを安心させようとしている。その姿を見て、ああ、この子はもう、ただの子どもではないのだと思った。
娘の嘘は、いつもどこかでわたし自身の姿を映している。
わたしはいまでも、ときどき嘘をつく。完璧な人間ではないから。
でも娘の嘘を見るたびに思う。娘はこれから、たくさんの嘘をつくだろう。そして、たくさんの痛みを経験するだろう。その痛みのなかで、娘はなにかを学んでいく。
わたしにできるのは、「悪い嘘」と「許される嘘」を、少しずつ教えていくことだけだ。人を傷つけるための嘘はいけない。でも、自分や他者を守るための嘘は、ときには必要だ。
そして、いつか娘が、嘘をつく必要のない人間になれるように——自分を受け入れ、他者を尊重し、誠実に生きられるように、そう願いながら、娘の成長を見守っている。
嘘は、人間が人間になるための、通過儀礼なのかもしれない。嘘をつく娘も、嘘をついてきたわたしも、同じ道を歩いている。
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