子どもの目線に合わせないということ

読み聞かせする親子

娘が三歳くらいの頃、寝る前に絵本を読んでいた。

僕は布団に寝転がり、娘を脇に抱えて、片手で絵本を持ち上げる。娘の顔を覗き込むこともなく、目線を合わせようともせず、ただ淡々とページをめくっていた。ある晩、妻に「それでいいの?」と言われた。

「いいの、って何が?」と聞き返すと、妻は少し困った顔で言った。

「だって、ちゃんと目線を合わせてあげないと」

ああ、そういうことか、と思った。

世の中には「子どもの目線に合わせる」という風潮がある。しゃがんで同じ高さに立ち、友だちのように話す。それがやさしさであり、正しさだとされている。

でも僕は、どうしてもそこに違和感があった。

境界というものについて

糸井重里さんが昔の対談で、こんなふうなことを言っていた。

——子どもと同じ目線になると通じるというのは絶対にまちがい。上から押さえつけるように喋らなきゃわからないと思う。実際に権力関係があって、見上げるから大人と子どもの関係なわけで。友達とはちがう。

言葉は強いが、僕はこの部分にだけは深く頷いた。

大人と子どもは対等ではない。そこには明確な上下関係がある。その境界を大人が曖昧にすると、子どもは迷う。

友だちのようにふるまうことは、やさしさではない。むしろ子どもから見れば、どこまで許されるのかがわからなくなる。踏み越えてはいけない一線の存在を知らせておくことは、子どもを支えるための支柱になる。

僕はそう考えていた。

僕の高さから読む、ということ

だから僕は、絵本を読むときもしゃがまなかった。僕の高さから、僕の声で、僕が面白いと思った絵本を読む。それだけだった。

『100万回生きたねこ』を読むと、娘はかならず「ねこ、死んじゃったの?」と聞いた。初回だけ僕の考えを少し話したが、それ以降は「うん、死んじゃったね」とだけ答えていた。

「どうして死んじゃったの?」
「さあ、どうしてだろうね。お前はどう思う?」

娘は黙り、僕も黙った。作者の意図を説明することはできたが、それをした瞬間、絵本は答えのある問題になってしまう。娘の中で育ちかけている何かを、そこで止めたくなかった。

大人の高さを保ったまま、僕は娘の考えが育つ余白を残したかった。

だるまさんが、で転げ回っていたころ

もっと小さかった頃、『だるまさんが』を読んでいたときのこと。ページをめくるたびに娘が笑い転げ、その顔を見て僕も笑った。

あの頃も、目線を合わせるとか、絵本の教育的価値とか、そんなことは微塵も考えていなかった。ただそこに一緒にいて、一緒に笑っていた。

今思えば、あれもまた境界の中の出来事だった。僕は友だちではなく、大人としてそこにいた。その高さのまま、娘と笑っていた。

合わせようとしなくていい

子どもに「合わせよう」とすればするほど、どこかで無理が出る。しゃがむことも、心理的に目線をそろえることも、それ自体が目的になってしまうと、本当に大事なものを見失う。

僕は僕の高さから娘を見ていた。その高さが、娘にとっての支えになると信じていた。

完璧な読み聞かせではなかったかもしれない。でも、笑い転げる娘の顔を本気でかわいいと思っていた。その気持ちだけは、どんな高さからでも届く。

それでよかったのだと思いたい。

はやま

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