夫が「やってるつもり」——哲学者三人に相談してみたら

キッチンに立つ妻

「もっと手伝ってくれない?」

「え、俺やってるじゃん」

——こんなやりとりを経験したことのある夫婦は、少なくないのではないでしょうか。

夜中に洗濯物を畳んでいると、隣ではビールを飲みながら夫がテレビを観ている。疲れ果てた頭で、「なぜ自分だけ」とぼんやり思う。喧嘩したいわけではありません。ただ、自分を見ていてほしい、わかってほしい。

夫が家事や育児を手伝ってくれない、それでも本人はやっているつもり——。特別ひどい夫の話でもなければ、とりたてて不幸な家庭の話でもありません。けれど、だからといって楽になるわけでもない。

そこで今回は、三人の哲学者にあなたの悩みをぶつけてみます。アダム・スミス、ハンナ・アーレント、エーリッヒ・フロム。彼らの答えが、肩の荷を少しでも軽くしてくれますように。

はやま

このテーマ、我が家も他人事ではありません。わたし自身も心当たりがある話だったので、夫側の視点からエッセイにしてみました。元の記事は、以下の折り畳みエリアに収納しています。お好きなほうを読んでください。

元の記事「哲学者三人に相談してみたら」

 

スミス「感情でなく、数字で見なさい」

まずは、18世紀スコットランドの経済学者で道徳哲学者のアダム・スミスです。「神の見えざる手」で知られ、近代経済学の父とも呼ばれる人物。生涯独身で、母親と一緒に暮らしていました。家事はほぼ母任せだったようで、「あなたの家はどうだったのか」と聞くと言葉に詰まりそうな気もしますが、意外と鋭いことを語ってくれています。

彼はこう答えました。

——夫が「やっている」と思うのは、彼に悪意があるからではありません。自分の努力を過大評価し、他人の苦労を過小評価するというのが、人間の根本的な性質だからです。

スミスは『道徳感情論』の中で、人間が公正な判断を下すためには「公平な観察者」の視点が必要だと説きました。自分の内側からではなく、第三者の目で自分を眺めてみる。それが道徳的な判断の土台になると。

夫に足りないのは、まさにこの外側の視点です。自分が「やった」と感じる量と、妻が「やっていない」と感じる量を同じ単位で測ったことがない。だから話が噛み合わない。

解決策は、可視化です。「今週の家事リストを見てほしい。あなたが担当した項目はこれ、私が担当した項目はこれ」というふうに市場の取引のように数字を突きつける。ロマンチックな方法ではありませんが、これがいちばん効きます。

はやま

「こんなに頑張っているのにわかってくれない」——このもどかしさはよくわかる。でも感情でぶつかっても、相手の「公平な目」は育ちません。一度、家事の総量を見える形にしてみる。数字には、言葉が届かない場所に届く力があります。とくに相手が男性なら。

アーレント「家事は、終わらなくて当然」

次に登場するのは、20世紀ドイツ生まれの政治哲学者、ハンナ・アーレント。ナチス政権を逃れてアメリカに渡り、全体主義の分析や人間の本質に関する著作で世界に大きな影響を与えた人物です。煙草を吸いながら鋭い眼光で議論をする姿が有名。「この悩みをアーレントに話したらどんな顔をするだろう」と想像すると、叱られる気もするし、見たことのない扉を開けてもらえるような気もします。

彼女はこう言いました。

——夫が家事育児を「タスク」だと考えているなら、それは根本的な誤解ですね。家事とは終わらせるものではなく、維持し続けるものです。

アーレントは著書『人間の条件』の中で、「仕事」と「労働」を区別して見せました。「仕事」は何かを作り上げることで完結します。棚を組み立てる、書類を仕上げる——。やり終えたら達成感があって、結果が形として残ります。

「労働」はそうではありません。食事を作っても食べてなくなり、洋服を洗ってもまた汚れる。片づけたらすぐまた散らかる。そこには終わりがない。達成感も得にくい。ただ生活を維持するため、延々と繰り返される営みです。

夫が「やってるつもり」なのは、家事育児を「仕事」として捉えているからです。やれば終わる。達成すればあとは自分の時間。でも、家事や育児の本質は「労働」です。つまり終わりのないループに毎日飛び込むようなもの。妻はそれを繰り返している。夫の「やった」は、そのループのどこかに短い時間だけ参加して、すぐ離脱したことを意味している。

そんな夫にアーレントはこう言うでしょう。「あなたに必要なのは、タスクを片づける手伝いではなく、このループの中に一緒に立ち続けることだ」

はやま

夫に求めるべきなのは、何をしたかの報告ではなく、一緒にそのループに立つこと。「これを手伝って」ではなく、「毎日をどう回していくか一緒に考えて」という話し方に切り替えてみるのも手です。

フロム「愛は、知ることから」

三人目は、ドイツ生まれの心理学者で社会哲学者のエーリッヒ・フロム。著書『愛するということ』は世界中で長年読まれ続けており、日本の本屋でいまもよく見かける一冊です。

愛は感情ではなく、技術である——これが彼の主張。シンプルでちょっぴり衝撃的です。愛は自然発生的なものではなく、学び、鍛え、実践し続けるものだ、と彼は言います。

フロムの答えは、三人の中ではいちばん穏やかでありながら、もっとも核心をついているように感じます。

——夫に悪意はない。あなたへの愛情も、おそらくある。でも彼はいま、「愛している気持ち」と「愛するという行為」を混同しています。

フロムは続けます。

——愛は「落ちる」ものではなく、隣に「立ち続ける」ものです。感情は自然に生まれるかもしれませんが、愛という技術は相手を知ろうとする意志と、日々の努力によってのみ育まれます。

あなたの夫は、妻がいま何を必要としているかを知ろうという意志と努力が足りていないだけです。「俺はこれをやった」ではなく、「彼女はいま何がいちばんきついのか」と問い続けること——。フロムにとってはこれこそが愛の実践なのです。

もうひとつ、フロムはこんなことも言っています。「愛することは与えることにある」。きれい事ではなく、これは実践的な提案です。妻が「わかってほしい」と願うなら、まず自分から「具体的に伝える」。それもまた愛するという技術のひとつなのかもしれません。

はやま

夫を変えようとする前に、「私が今いちばんつらい、きついのはこれだ」と具体的に伝えてみる。フロムが言うように、愛することは知ることから始まります。そのためのきっかけを作ってあげるのも、愛の技術のひとつなのでしょう。

葉山の食卓アドバイス

怒りやいらいらが続くとき、わたしが勧めるのは「体を整える」ことです。感情は血液の状態に深く関わっています。東洋医学と現代栄養学が異なる角度から指し示してきた事実です。

とくに東洋医学でいう肝は、感情と深く関わる臓器です。疲れると熱を帯び、些細なことで感情がたかぶりやすくなる。

そんな日におすすめなのは、青菜——小松菜、ブロッコリー、菜の花などです。緑の野菜は肝の働きを助け、たかぶった神経をやわらかくしてくれます。よく噛んで食べることも大切。噛む行為そのものに脳の興奮を鎮める働きがあります。

夫への複雑な感情を燃料にして相手を変えようとするのは、実は自分をいちばん消耗させます。まずは体を整え、ご自身をいたわるところから始めてみてください。

 

夫視点のエッセイ「ループの外で眠っていた」

いつだったか、人からこんな話を聞いて、背中がぞくっとした。

妻というのは、授乳期に夫がどれだけ手伝ってくれたか、どれだけいたわってくれたかを死ぬまで覚えている。それがその後の夫の評価の基準になる——。

熟年離婚をする夫婦が増えているという。長年連れ添った夫が、ある日突然、妻から三行半を突きつけられる。寝耳に水と夫は言う。だが妻の側では三十年前にもう審査が終わっていたのだとしたら。突然ではなく、満期だったとしたら。

ぞくっとしたのにはわけがある。身に覚えがあったからだ。

げっぷをさせるのは妻よりうまかった

娘の授乳期、僕は妻を手伝っていた。ミルクを作って飲ませた。げっぷをさせるのは妻よりうまかった。おむつも替えた。夜中に泣き声で目が覚めれば、起きてあやすこともあった。

当時の僕は、自分を「やってる夫」だと思っていた。実際、何もしない父親ではなかったはずだ。ただ赤ん坊は定期的に泣く。おむつが汚れては泣き、お腹が減っては泣く。眠れない夜が続いて、仕事のパフォーマンスががくっと落ちたことがあった。僕の仕事は書くことで、睡眠不足はそのまま原稿に出る。だから別の部屋で寝ることにした。

妻は無職だ。妊娠と同時に仕事を辞めた。僕が一人で家計を支えなければならない。合理的な判断のつもりだった。

妻と激しい言い争いをした記憶はない。

「もっと手伝ってくれない?」

「え、十分やってるじゃないか」

その程度のやりとりが何度かあっただけだ。

哲学の本に採点される

あれから十数年が経ち、哲学の本などを読んでいると、当時の自分が採点されるような心地になることがある。

たとえば十八世紀スコットランドの道徳哲学者、アダム・スミスは、「神の見えざる手」で知られる経済学の父である。

スミスは『道徳感情論』で、人間が公正な判断を下すには「公平な観察者」の視点がいると説いた。自分の内側からではなく、第三者の目で自分を眺めること。なぜそんな面倒な迂回路が必要かといえば、人間は放っておくと、自分の努力を過大評価し、他人の苦労を過小評価する生き物だからだ。

あの頃の僕の「やってる」を、公平な観察者に測定してもらうと、どうなるだろう。授乳(ミルク)やおむつ替えは、僕は頼まれたときと気が向いたときにやった。妻は二十四時間体制だった。

ちなみにスミスは生涯独身で母と暮らし、家事はほぼ母任せだったらしい。あなたの家はどうだったんだと聞きたくなるが、自分が完璧でない人間ほど観察眼は鋭くなるものだ。

育児を仕事としてやっていた

二十世紀の政治哲学者、ハンナ・アーレントは『人間の条件』の中で、仕事と労働を分けた。仕事は完結する。棚を組み立てる、原稿を仕上げる。やり終えれば達成感があり、形が残る。労働は完結しない。料理に洗濯、片づけ、育児……。生きるために延々と繰り返される。

僕はたぶん、育児を仕事としてやっていた。ミルク一回、おむつ一枚。タスクとして参加し、達成して離脱する。でも育児の本体は労働だ。終わりのないループである。妻はそのループの中にいて、僕は外にいた。別の部屋で寝るという判断も、妻にはループからの物理的な離脱に見えたかもしれない。

妻が求めていたのは、タスクの代行者ではなく、同じループの中に立ち続けてくれる人だったのではないか。

アーレントはナチス政権を逃れてアメリカに渡り、全体主義の分析で世界に衝撃を与えた人だ。煙草を手に鋭い眼光で議論する写真が残っている。当時の僕の言い分など、煙ごしに一瞥されて終わりそうな迫力がある。

妻の体のことは調べなかった

ドイツ生まれの心理学者、エーリッヒ・フロムは「愛は感情ではなく技術だ」と言った。技術である以上、学ばなければ身につかない。その実践の第一歩は、相手を知ろうとする努力だというのである。

産後の母親のホルモンバランスが大きく崩れることを、僕は知らなかった。毎日いろんな調べものをしていたが、出産を境に妻の体に何が起きていたのか調べもしなかったし、取材もしなかった。彼女はいま何がいちばんきついのか、と問う時間は持たなかった。愛情がなかったからではない。技術がなかったのだ。

知っていればと思う。知ったうえで別の部屋で眠るのとそうでないのとでは、同じ離脱でも何かがちがったろう。フロムの言うとおりなら、知らないままでいるだけで、少しずつ愛の残高は目減りしていく。

それでも仕事は落とせなかった

そうはいっても仕事は落とせなかった。睡眠時間を削れば原稿の質は確実に落ちる。収入も減る。家族を養うこともまた、れっきとした労働への参加ではないか。あの頃に戻ったらもっとうまくやれるだろうか。その自信もない。

赤ん坊はもう高校生になった。いま、我が家の台所のループに立っているのは僕である。夕飯を作り、弁当を詰める。ずいぶん遅れての合流になったが、生きている限りループは続いていく。

妻の採点簿に、授乳期の点数がどう記されているのかは知らない。聞くのも怖い。ただ、死ぬまで覚えているというなら、こちらも死ぬまでに返せる分は返しておこう。

台所のループは今夜も回る。幸い、終わりがない。