忙しくて、自分の時間がないと嘆いているあなたへ

タンポポコーヒーを飲むお母さん

「自分の時間がほしい」と思いながら、もう何年が経ちましたか。

朝起きたらすでに誰かのための一日が始まっていて、夜になったら疲れ果てて眠るだけ。好きだった本は本棚の飾りになり、始めようと思っていたことは「いつか」のまま年を越した。

時間がない、というより、自分の時間というものが存在しない気がしてくる。

そういう方に、今日はひとつだけお伝えしたいことがあります。

時間は、もともとあなたのものです。

急に何を言うんだ、という感じですよね。わかります。でも、少しだけ付き合ってください。

「時間がない」は、呪文になっていませんか

「時間がない」は、現代でいちばんよく使われる言葉のひとつではないでしょうか。

朝のホームで、オフィスで、子どもを寝かしつけたあとの暗いリビングで、わたしたちはこの言葉を呟き続けています。言い続けるうちに、それがいつしか事実になっていく。「時間がない人間」という役割を、自分に貼りつけてしまう。

でも、少し立ち止まって考えてみると——。時間は、みんなに一日24時間あります。総理大臣にも、三人の子どもを育てながら働くお母さんにも、隣の呑気そうなご主人にも。増えも減りもしない。

では何が違うかというと、「誰のために使っているか」です。

あなたの時間の多くは今、仕事のために、家族のために、学校のために、社会のために使われています。それは尊いことです。でも、使われ続けるうちに「これは自分の時間だ」という感覚が、どこかへ行ってしまった。

環境を劇的に変えることは、すぐにはできないかもしれません。仕事も、育児も、今日明日でなくなるわけじゃない。だとしたら変えられるのは、時間に対する「心のありよう」だけです。

そして、その心のありようについて、ずっと昔から同じことを言い続けている人たちがいます。

2000年前から、同じことを言っている人たちがいた

紀元前の中国の哲学者・荘子は、権力者から高い地位をオファーされたとき、こう言って断りました。「泥の中を自由に這い回るカメでいたい」。わりと失礼な断り方ですが、これが荘子という人間です。

彼の言葉に「無用の用」というものがあります。一見、何の役にも立たない空洞があるからこそ、車輪は回り、器は水を入れられる。「役に立たない時間」——ぼんやりする時間、ただ空を見る時間こそが、魂を養う本当の意味での時間だと言いました。

古代ローマの哲学者セネカは、もう少し辛口です。「人生は短いのではない。私たちがそれを浪費しているだけだ」。膨大な富を持ちながらこれを言うあたり、人間としていろいろ問題がありますが、言っていることは鋭い。彼は「時間ができたら趣味をやろう」という姿勢をきっぱり否定しました。その「いつか」は来ない、今この瞬間にだけ時間は存在する、と。

そして鎌倉時代の禅僧・道元は、ただこう言いました。「而今(にこん)」——今、ここ。皿を洗うときは皿を洗うことと一つになる。子どもと話すときはその子だけを見る。「自分の時間」とは特別な活動のことではなく、今この瞬間に心がある、ということそのものだ、と。

荘子も、セネカも、道元も、生きた時代も場所もまったく違います。でも三人とも、同じことを言っています。

時間は、今あなたの手の中にある、と。

たんぽぽコーヒーを、無心で淹れてみてください

「そうは言っても」と思う気持ち、よくわかります。哲学者たちは子どもの送り迎えも、山積みの洗濯物も、明日の締め切りも知らない。

だから、大きなことは言いません。ひとつだけ、試してみてほしいことがあります。

たんぽぽコーヒーを、一杯だけ淹れてみてください。

たんぽぽの根を焙煎して作るノンカフェインのこのお茶は、血液の循環を助け、冷えや気力の不足にそっと寄り添ってくれる飲みものです。カフェインがないので、疲れた夕方や、子どもを寝かしつけた後の静かな時間に飲むのにもちょうどいい。

でも、効能はいったん脇に置いておきましょう。

お湯を沸かして、カップを温めて、ゆっくり注ぐ。ただそれだけのことを、誰かのためでなく、他のことを考えながらでもなく、その動作だけに集中してやってみる。湯気の立ち方を見る。香りを嗅ぐ。カップを両手で包んで、温かさをただ感じる。

その数分間は、荘子が言う「無用の時間」であり、セネカが言う「自分が所有する時間」であり、道元が言う「今ここ」です。

趣味を取り戻すのは、その後でも遅くありません。まず、時間は自分のものだったということを、体で思い出してほしいのです。

はやま

大きく変えなくていい。今日、たった一杯分だけ、自分のためにお湯を沸かしてみてください。その時間は、誰にも渡さなくていい時間です。