「内なる沈黙」——ジャック・マイヨールと、プールで覚醒した中学生の話

プールで泳ぐ中学生

伝説のフリーダイバー、ジャック・マイヨールはこんな言葉を残しています。

「フリーダイビングとは沈黙だ。内側から生まれる沈黙だ」

素潜りの世界記録を何度も塗り替え、映画『グラン・ブルー』のモデルにもなった男が、生涯をかけて追い求めたもの。それは深海でも記録でもなく、「内なる沈黙」でした。

マイヨールは潜る前に、決まった儀式をおこないました。太陽に向かって独特の呼吸をし、肩まで海につかり、ゆっくりとした呼吸を繰り返す。そして水深3メートルで2、3分、じっとしたまま動かない——。傍から見ていた人は「昔会ったイルカに語りかけているようだった」と記しています。

これは、瞑想そのものです。

世界最高のダイバーは、海に潜る前にすでに「無」に入っていた。


話は変わりますが、わたしが初めて「無心」の感覚を知ったのは、中学3年生のときでした。場所は海ではなく、25メートルのプールの中です。

わたしは保育園のころからスイミングスクールに通い、中学では部活とスクールの両方で競泳選手として練習に励んできました。0コンマ1秒を削る世界です。大会に向けてゴリゴリと練習メニューをこなす毎日でした。それが中学3年の秋、部活を引退したとたん、何かが変わりました。

スクールから「好きなときに来て、空いているレーンで自由に泳いでいい」といわれました。タイムも、大会も、フォームの矯正も、もう何もない。ただ泳いでいいだけ。その環境が手に入ったとき、はじめてあの感覚が訪れた。

泳いでいると、ある瞬間から体が「勝手に動き出す」ようになったのです。

500メートル、1000メートルと泳ぎ続けていると、腕が、足が、まるで水の中で育ったいきものみたいに自然に動いて、自分は何もしていないのに前へ進んでいる。思考がいつの間にか消え、水の感触だけが全身にある。目を閉じると、プール全体と自分の体の境界線がどこにあるのかわからなくなってくる。子宮の中にいるような、とでもいうほかない感覚です(生まれる前の記憶はありませんが)。

そしてプールから上がったあとの頭が、別物になっていました。

冴えわたっている、という言葉がいちばん近い。周囲の光や音の輪郭がくっきり見える。目や耳から頭に飛び込んでくる情報、文字や言葉がそのまま正しい場所にカチリと収まっていく感じがする。考えることが気持ちいい。学ぶことが楽しい。

ちょうど受験期でした。わたしはプールの帰りに塾に寄るようにしました。週に4回。泳いでから塾へ行くだけで、家ではほとんど勉強しなかったのに、成績はぐんぐん上がっていきました。

それだけではありませんでした。思春期のぐらついた心が、泳いだあとは奇妙くらい静かになっている。その結果として、人との関係がいいほうに転がっていく。

そのころのわたしは、まだ「瞑想」という言葉を知りませんでした。ただ漠然と、泳ぐと頭がよくなる、気分がよくなると思っていた。でも今ふり返ると、あれは紛れもなく「無心」の状態でした。思考が静まり、意識だけが澄んでいる、あの感覚。マイヨールが深海で追い求めたものと、本質的には同じだったと思います。


残念なことが起きました。

高校に進学するとき、親に水泳をやめるよう説得されたのです。大学受験の邪魔になる、という理由でした。

あの覚醒した感覚は、水泳をやめると消えてしまいました。頭の切れ味が戻らない。勉強しているのに何も頭に入ってこない。何となく気分が重い日が増える。高校3年間、ずっとどこかで「あの感覚」を探していたような気がします。

その後、紆余曲折を経て、瞑想に出会いました。

正直にいうと、最初の印象は「弱い」でした。あのプールの中の感覚に比べると、ずいぶん薄い。ニコチンガムとタバコくらいの差があります(笑)。でも、続けているとたしかに効く。メンタルが安定する。嫌なことがあった日の翌朝、少し楽になる。頭の中の濁りがゆっくり沈んでいく感じがある。

いまは10年以上、ほぼ毎日続けています。やめられないのは、あの「内なる沈黙」の感覚に、瞑想でしか近づけないからだと思います。


はやま

プールに行けばいいじゃないか、と思うでしょう? そうなんです、行けばいいんです。なのになぜか行けていない(笑)。いつかまた行きます。それまでは瞑想で我慢します。

「無心」は、なぜこれほど気持ちいいのか

思考が静まったとき、人間の脳に何が起きているのでしょうか。

脳科学の研究によると、瞑想中に前頭葉の活動が落ち着くと、代わりに後頭葉が活発になります。論理や判断をつかさどる「働きすぎの部署」が休むことで、記憶の整理や感情の処理が一気に進む。散らかった机の上を片付けながら、同時に書類をきれいに棚に収納しているような状態です。

ハーバード大学の研究では、8週間の瞑想で脳の海馬(記憶・学習を担う部位)の密度が増し、扁桃体(不安・恐怖に反応する部位)が変化することが確認されています。わずか8週間で、脳が物理的に変わる。

わたしが中学生のときにプールで感じた「頭が別物になる」感覚は、おそらくこういうことだったのだと思います。1000メートル泳ぎ続けることで強制的に思考が止まり、脳が一気に整理された。その状態で塾に飛び込んだから、学んだことが全部きれいに収まっていった。

マイヨールが深海に潜る前に、水面でじっと動かなかった理由もわかります。あれは準備運動ではなく、脳のリセットだったのです。


瞑想は「ストレス解消法」じゃない

瞑想というと、「疲れたときのリラックス法」とか「ストレスを溜めないための方法」として紹介されることが多い。それは間違いではありませんが、少しもったいない紹介のされ方だとわたしは思います。

瞑想は、人間の脳が本来持っているパフォーマンスを取り戻す方法です。

思考の雑音が静まったとき、人は驚くほどクリアに物事を見られるようになります。判断が早くなる。感情に振り回されにくくなる。人の話が深く聞けるようになる。自分が本当に何をしたいのかが、静かにわかってくる。

ストレスを消すのではなく、ストレスに揺さぶられない自分になる。これが、10年以上続けてきてわたしが感じていることです。

マイヨールは海に潜り、中学生のわたしはプールに潜り、その「内なる沈黙」を見つけました。瞑想は、どこにいても、いつでも、その扉を開ける鍵です。

次の記事では、実際のやり方を書きます。難しくありません。呼吸することと、座ること。それだけです。


瞑想する女性 3分から始める瞑想——呼吸を整えるだけで、頭と心が変わる理由