断食三日目、スーパーのチラシが文学になった——食欲のゆくえ

断食3日目の男

断食そのものの顛末はすでに書いた。これはその裏側、断食をしているあいだ、僕が何をしていたかという話である。

食べ物を見ていた。

食べられないのだから、せめて見ないようにするのが分別というものだろう。ところが逆だった。世界の料理動画を見る。スマホで他人のレシピを読む。深夜、布団の中でグルメ漫画を読む。断食中の男の部屋は、食べ物の情報で満杯になったのである。

極めつきはスーパーのチラシだった。ふだんは見もしないあの紙が、三日目あたりから輝き出した。国産豚ロース、百グラム百九十八円。読む。目を凝らす。行間まで読む。断食中の男にとって、チラシは文学だった。

妻に言われた。

「見なきゃいいのに」

その通りだ。だが、見てしまう。隣の部屋で娘がポテチの袋を開ければ、バリバリというあの音がコンサートホールのように耳朶を打つ。嗅覚が冴えわたって、鼻が犬になる。飢えた体というのは、全身が食べ物のほうを向くようにできているらしい。

そのうち僕はノートをつけ始めた。「明けたら作る料理」のリストである。

これが日に日に育っていった。初日は味噌汁だった。三日目にはとんかつが加わり、五日目には前菜から始まるフルコースになり、七日目にはもはや宴会の献立になっていた。頭の中の僕は、史上最高の料理人だった。食材費を概算して、青ざめたりもした。空腹の男の想像力に予算などという概念はない。

さて、断食が明けた。

あの分厚いリストの料理を、僕は一品も作らなかった。体が欲したのは、あっけないほど静かなものだった。それで足りてしまったのだ。

このとき気づいたことが、いまも僕の中に残っている。豪華な食べ物を欲しがっていたのは頭で、体はささやかなものを求めていたのだ。欲望というのは想像の中でいくらでもふくらむが、体の声はいつも小さくて短い。たぶん、食べ物だけの話ではない。

あのノートはいまも抽斗にしまってある。たまに開くと、飢えた男の字で「カツ丼(大盛り)」と書いてある。

筆跡に気迫がみなぎっている。あれは僕が人生でいちばん心を込めて書いた文字だ。