娘のお宮参りのとき、神主が祝詞を上げた。
その声は、不思議なくらい心地が良かった。低くゆったりとしたリズムで、音程がわずかに揺れ動きながら朗々と空間を染め上げていく。
まるで歌だ。坊さんの読経とは何かがちがう。あっちは神妙な気持ちになるし、ついまぶたが重くなる。こっちは晴れやかな気分になって、頭もすっきりしてくる。
あとで調べてわかったのは、祝詞は歌に似ているのではなく、もともと音楽的な性質がある言葉として設計されたということだ。雅楽や神楽と響き合いながら、神さまと人間とをつなぐために作られたのだ。
祝詞が、漢字が伝わるよりずっと昔から使われてきた和語、やまとことばで奏上されるのも、あの美しい響きと無関係ではないだろう。
現代語にはない艶がある。僕らの先祖はかつて、言葉そのものに霊力が宿ると信じていた。言霊と呼ばれるものだが、音そのものが意味を持っていたのだ。たとえば「い」には「神聖なもの」という意味があり、「へ」には「辺(あたり)」という意味があり、これが合わさって「家(いえ)」となったように——。
読経とのちがいも腑に落ちた。読経はお経——釈迦の教えを弟子たちがまとめた経典——を読み上げるもので、つまりは朗読だ。でも祝詞は、神さまとの一瞬一瞬の対話なのだ。
七つ前は神の内
こんな言葉がある。
——七つ前は神の内。
子どもは七歳になるまで、神の世界に属する存在だという考え方を表したことわざだ。昔の子どもの死亡率はいまとは比較にならないくらい高かった。江戸時代のある調査では、二歳になるまでに五人に一人が亡くなっていたそうだ。
七歳を無事に迎えられることが当たり前ではなかった時代、七歳未満の子を「まだこちら側には来ていない」と考え、神さまの側に軸足を置いた存在として扱っていたのだ。
お宮参りや七五三という行事の根底には、この思想が流れている。
子どもがあっちの世界からこっちの世界へと少しずつ降りてくる。その節目ごとに、神さまに報告をする。そこに初詣も加わって、日本人は一生をかけて神社に通い続けてきたのである。
お宮参り|産土神に引き合わせる
お宮参り(初宮参り)は、生後三十日頃に行なう行事だ。平安時代から行なわれてきた。その目的は、子どもが生まれたという神さまへの報告である。
古来、子どもは産土神、あるいは氏神と呼ばれる、土地の神さまの力を受けて生まれてくると考えられてきた。だから、子どもが生まれたらまずは挨拶に行く。「おかげさまで無事に生まれました。これからこの子をずっとお守りください」と。
そのとき、子どもは晴れて地域の神さまの子——神社の氏子の一員として認められるのだ。地域社会と神さまの両方に存在を届け出る儀式なのだ。
お宮参りの際、友人夫婦は子どもが儀式の最中に泣かないよう、事前に授乳したりおむつを替えたりしていたが、実はその昔、子どもの頬をつねってわざわざ泣かせるという風習もあったという。「新しい氏子が参りましたよ」と神さまにしっかり覚えてもらうためだったらしい。
だから僕は、娘が泣いたら泣いたで、好きなだけ泣かせておけばいいなどと思っていたのだが、当の娘は終始ご機嫌だった。参拝したのが家の近所の小さなお社で、お宮参りに来る家族なんて年に数えるほどだから、暇を持て余した氏神さまがやさしくあやしてくださっていたのかもしれない。
七五三|神の世界を一歩ずつ卒業
七つ前は神の内——この言葉を知ってから、七五三の意味も変わって見えてきた。
三歳、五歳、七歳という節目はそれぞれ、子どもが神の世界から人間の世界へと一歩ずつ踏み出していく、大人の階段なのだ。
それぞれ数え年となるが、三歳は髪置と言い、それまで剃っていた髪を伸ばし始める。五歳は袴着と言い、男の子が初めて袴を着用する。七歳は帯解と言い、女の子が大人と同じ帯を締め始める。そうしてこの日、ついに神の内を卒業する。
七五三が神社への参拝とセットなのも、もちろん大切な成長の節目を神さまに報告するためである。
娘の七五三は、二度やった。
三歳のときは、地元商店街の小さな写真館で記念写真を撮ってもらった。とてもいい写真で、写真館の主から表に飾らせてもらえないかという申し出をもらったほどだ。妻が丁寧に断っていたが。
それからほどなくして前を通りかかったら、ショーウィンドウに娘の写真がでかでかと飾ってあった。「信じられない」妻が目をむいた。「ちゃんと断ったのに。変質者に目をつけられて誘拐でもされたらどうするのよ」
肩をいからせて、そのまま店に向かって突進し始めたので、僕は格闘技のレフェリーさながら両手を上げて、「ウェイ! ウェイ!」と制止し、妻と店のドアのあいだに体をすべり込ませた。
「それくらいかわいかったんだよ」
すると妻はあっさり引き下がった。僕が止めるとわかっていたのだろう。でも、そのあと不服そうにずっと口をとがらせていて、アイスを買い与えるまで子どものようにすねていた。
七歳のときは、妻が断固として「もうあそこには行かない」と言うので、仕方なく原宿の人気スタジオを予約した。僕は代官山、自由が丘、表参道といったお洒落すぎる街が苦手だ。原宿も雑誌編集者時代、通勤の乗り換えで毎日駅周辺を歩いていたけれど、ろくに街を散策したことはない。人が多いからという理由ではない。神田、浅草、三軒茶屋なんかは平気だ。むしろ落ち着く。
二週間後、原宿のスタジオへ行った。壁と天井と床がホワイトニング直後の歯のように白くて、僕はなぜかキューブリックの映画に迷い込んだような錯覚を覚えていた。前の晩は徹夜だった。最初から最後までめまいがしていた。視界も足元もずっとふらついていた。
「帰っていい?」と妻に聞いたら、「だめだよ。娘の晴れ舞台なんだから我慢して。あとでアイス買ったげるから」と言われた。大の大人がアイスなんぞに釣られるものか。君と一緒にするな。
「瑞穂の豆大福で」
「いいよ」
肝心の写真の出来であるが、さすがだった。奇跡の一枚が何十枚もあった。こうなるともはや奇跡でもなんでもないのだが、素直に感心してしまった。
初詣|年神さまを迎える
正月の初詣ほど、なんとなく行なっている行事もそうはないだろう。その原形は、現在とはかなりちがうものだったようだ。
初詣はもともと、地元の氏神神社に参詣するか、その年に年神さまが宿るとされる縁起の良い方角——恵方の神社に参拝するかだった。年神というのは、年明けに家々を次々と訪れ、豊作や健康をもたらす神さまだ。鏡餅も門松も年神さまをお迎えするための準備である。
それが現代のように、有名な神社にこぞって押しかけ行列を作るようになったのは、明治以降に鉄道が発達してから。わりあい最近の話である。
でも本質は何も変わっていない。お宮参りで子どもの誕生を報告し、七五三で無事に育っていると報告し、毎年の初詣でまた一年の報告を行なう。僕らはずっと、神さまに自分の人生の変遷を報告し続けているのである。
神さまは人生を報告する相手
僕ら人間は生まれ、育ち、老い、やがて死ぬ。人の死亡率は百パーセントだ。
けれどもそれでおしまいというわけではない。先祖から僕ら、僕らから子どもたちへと、命は途切れることなく受け継がれていく。その中で節目節目に神社を訪れ、神さまとの産霊——結びを更新することで、流れの中に自分を位置づけなおす。
僕ら現代人が「報告」という感覚を失いつつあるのは事実だ。型をなぞってはいても、その意味は薄れ、神さまと語らっているという意識は薄れている。
お宮参りで聞いた神主の歌声が時々、耳の奥によみがえってくる。神さまと言葉を交わしていた時間——僕らはそのときその場所に立ち会っていたのだ。
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