犬は、「なぜ生きるのか」と悩まない。猫も悩まない。桜の木も、悩んでいるようには見えない。自分の存在の意味を問うてしまうのは、どうやらこの世界で人間だけである。
なんのために、こんなに頑張っているんだろう——ふとそう思う夜がある。送り出して、洗濯機を回して、メールを返して、夕飯を作って、気づけば夜で、また明日が来る。忙しいのに、虚しい。充実しているはずなのに、何かが足りない。
先に言っておくと、この問いは、暇な人間の道楽ではない。立ち止まって考えられる人間だけが持てる、まっとうな問いである。なにしろ人類は、これを二千年以上こねくり回して、まだ結論を出せていないのだ。
二十世紀フランスのジャン=ポール・サルトルは、この問いに、人類史上もっとも素っ気ない答えを出した人である。
人生に、あらかじめ意味はない——。
ハサミは、「切る」という目的が先にあって作られる。設計図が先、存在があと。ところが人間は、逆である。まず生まれてしまって、それから自分が何者かを決めていく。サルトルはこれを「実存は本質に先立つ」と言った。生まれてきた理由も、生きる目的も、誰もあらかじめ用意してくれていない。
絶望的な話に聞こえるだろうか。僕には、逆に聞こえる。意味があらかじめないということは、意味は、見つけるものではなく、つくるものだということだ。「何のために生きているかわからない」のは、欠陥ではない。自分の人生の意味を、まだつくっている途中だというだけのことである。
ただし、頭の中だけでつくろうとしても、たぶんうまくいかない。
西田幾多郎という人がいる。明治から昭和を生きた、日本で最初の本格的な哲学者と呼ばれる人である。彼の出発点は、「純粋経験」という考えだった。音楽に聴き入っているとき、人は「私が音楽を聴いている」とは思っていない。私も音楽もなく、ただ音だけがある。考えるより前の、その生きた経験こそが、いちばん確かな現実なのだと西田は言う。
これを台所に持ち込むと、こうなる。意味を問うているとき、人は人生の観客席に座っている。けれど、誰かのために味噌汁を作っているとき、子どもの寝顔を見ているとき、人は人生のまっただ中にいる。問いが消えている時間こそ、実は、いちばん濃く生きている時間なのだ。
ここからは、僕自身の話をする。
僕はこの問いに、ずいぶん長い時間を支払ってきた。とくに闘病の日々はそうだった。動けないまま天井を見上げて、自分はなんのために生きているのだろうと、何度も考えた。考えて、考えて、答えは出なかった。
いまの僕が思うのは、こういうことである。生きることに、理由なんてなくていい。
理由がなくても、人は誰かを愛する。理由がなくても、おいしいものを食べればほっとするし、美しいものを見れば心が動く。その積み重ねが、振り返ったとき、いつのまにか「自分の生きる意味」という形になっている。意味は、問いの先にあるのではない。暮らしのあとに、残るものなのだ。
だから、むずかしく考えなくていい。幸せになりたいと思うこと——それが、すでに答えである。
今夜もまた、誰かのために味噌汁を作り、洗濯物を畳む。
理由は、ない。それでいい。
犬はたぶん、最初から知っている。
はやま
※このブログの情報は、医療機関の監修を受けておらず、病気の診断、治療、予防を目的とするものではありません。記事内でご紹介している効果効能についても栄養素や成分に関するものであり、商品やサービスに関するものではないことにご注意ください。体調不良が長く続く場合は、医療機関で相談することも大切です。食卓でできること、専門家の力を借りること、その両方が、あなたの体を支えます。

