すべてはひとつ——スピノザとヨガと、朝のベランダ

みんな同じ源流の水を飲んでいた——スピノザとヨガと、朝のベランダの話

毎朝、コーヒー片手に東の空を見上げ、お天道さまに向かって「今日もなんとか生きてます。ありがとう」と心の中でつぶやく。

人に話すと「宗教的な人なんですね」と言われることがある。そのたびに僕は「ちがうちがう、そうじゃない」と手を振ってみせる。特定の神さまを信じているわけではない。ただ、自分はこの広大な世界の一部なんだという感覚が、朝の淡い光の中で静かに胸に満ちるのだ。

スピノザ「神すなわち自然」

十七世紀の哲学者が、そんな感覚をすでに言葉にしている。

スピノザは、アムステルダムのユダヤ教団から破門された哲学者だ。危険思想の持ち主というのがその理由。破門状には「昼も夜も彼を呪え」という苛烈な文言が並んでいたという。

それほど危険視された思想とはいったい何だったのか。「神すなわち自然」である。

スピノザによると、神は天上にいる人格を持つ存在などではなく、自然そのものだ。植物も動物も僕ら人間も、あるひとつの大きな実体の現われにすぎず、すべてはその連なりのちっぽけな一部なのだ。

教団が怒るのも無理はないだろう。人格を持つ唯一神を崇めている彼らには、スピノザの思想は信仰の根幹を揺るがすものだったのだ。

でも僕の中にはすんなりと入ってきた。初めて読んだときは「わかる」と深くうなずいた。よく知っている感覚だったからだ。

ヨガ哲学「アートマン=ブラフマン」

似た思想は東洋にもある。

ヨガの源にある古代インド哲学、ウパニシャッドの教えには「梵我一如《ぼんがいちにょ》」というのがある。

アートマンは個我、つまり「わたし」。ブラフマンは宇宙の根本原理であり、大いなる「一なるもの」。このふたつは本質的に同じだという。つまり、個としての人間は宇宙そのものということだ。

「神すなわち自然」と「梵我一如」——。言葉はちがっていても言っていることは同じなのである。

これは日本人の自然観とも不思議なくらい一致している。

八百万の神さま——大地や山に、川や海に、雨や風に、古木や大岩に神さまが宿る。山で感じるあの気配も、水に触れたときに体の芯がすっと軽くなる感覚も、先祖の暮らしを支えていた見えない柱も、根底にあるのはやっぱり「すべてはひとつ」という意識だ。

それにしても、十七世紀のオランダ、古代のインド、縄文の日本——。洋の東西、時の古今を問わず、なぜこれほどまで似通っているのか。

思想は旅をする

ひとつの仮説がある。

別々に生まれた思想ではなく、源流は同じというものだ。

紀元前三二六年、アレクサンドロス大王はインドに遠征した。従軍した学者たちが、インドの裸の賢者たちと問答した記録が残っている。ギリシャとインドには、このとき確実に人と思想の通り道ができていた。

時代はくだる。新プラトン主義の哲学者プロティノスは「一者からすべてが流れ出す」という思想を展開した。インド哲学と驚くほど似ているが、実は彼はインドの哲学を学びたい一心で東方遠征軍に加わったことがあった。

遠征は途中で頓挫し、命からがら逃げ帰ったそうだが、当代一流の哲学者が命を賭してまで東の知恵に触れたがっていた。新プラトン主義の思想はヨーロッパの哲学の底を長く流れ続け、スピノザの時代にまで届いている。

ちなみに、この思想のベースとなったプラトンのイデア論にも僕は同じ匂いを感じる。キリストの思想に触れたときもやはり同じことを思った。

その直感を裏づけてくれる伝説があった。

聖書にはキリストの十二歳から三十歳までの記録がほとんどない。この空白の十八年、イエスはインドで修行していたという説が昔からあるという。キリストの研究者たちは無視を決め込んでいるようだが、それでも東西の交易路が当時すでにつながっていた以上、思想が旅をした可能性までは否定できない。

空を見上げ、世界とつながる

仮説はもうひとつある。

源流が同じだったのではなく、感受性の鋭い人間は時代と場所を超えてひとつの真実へたどり着くという考え方だ。

どちらが正しいのか、僕にはわからない。

片方は歴史の話で、片方は人間の話だ。でも行き着く先は同じだろう。神とは自然そのもので、僕らはその一部で、すべてはひとつ——この感覚は、人類にとってもっとも古く、もっとも普遍的なものだ。

哲学を学ぼうという意欲はもうない。知識への渇望も消えてしまった。小むずかしい本を開かなくても、毎朝、空を見上げるだけでいい。

スピノザが見た空も、インドの賢者が見上げた空も、僕らの先祖が手を合わせてきた空も、うちのベランダから見えるこの空と同じ空だ。

人類の叡知に触れるのに必要なのは、コーヒー一杯分の時間だけである。

今朝も僕はベランダでそれを済ませてきた。